サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(退院・新婚・nihilism)

*昨日、母親から、鬱血性心不全の為に入院していた父親が無事に退院することに決まったと報せてきた。早ければ一週間、長ければ三週間という事前の見立てであったから、比較的症状は軽微で済んだものと思われる。母親はメールの文末に、此れからは自己管理に確り励んでもらうと書いて寄越した。

 自己管理に精励することは無論、重要な医学的心得であろうが、それ以上に、老齢という現象そのものの意味を、当人も息子である私も冷静に考慮しなければならない時期に差し掛かったと看做すべきであろう。誰しも、無限に若く健康でいられるものではない。生命に死という期限が区切られるのは、現世を縛る鋼鉄の掟である。

 本来ならば直ぐに快気祝いでも携えて顔を見に行くべきなのだろうが、目下、二歳の娘がアデノウイルスに侵入されて高熱に苦しんでおり、外出も儘ならないので先送りしている。病み上がりの人間を見舞うのに、熱病の子供を伴うのは衛生的な配慮としても支障があろう。身内の病は、歯痛のように絶えず意識の片隅で疼くものである。早く娘には健康を恢復してもらいたい。あの驚嘆すべき獰猛な食欲を、一刻も早く甦らせてもらいたい。

*直属の部下である女性社員が、金曜日に北海道で華燭の典を催す予定である。生まれて初めて祝電なるものを打ち、それが無事に先方へ届くかどうか、少し気を揉んでいる。確か二十四歳なので、適齢期と言えば適齢期であろうが、昨今の平均値を考えると聊か早婚の部類に属するかも知れない。

 個人の自由を重んじる思想が社会に深く浸透すればするほど、結婚に対する欲望は薄れるのが自然な現象であろう。そもそも結婚というのは、労働と同じく社会的な責務であって、それを端的に欲望の対象と称するのが適切な姿勢であるかどうかは心許ない。恋愛と結婚を等号で結ぶのは現代的な宿痾であるが、両者は本来、相互に異質な事象である。結婚を個人的な愉楽のように看做すのは危険な謬見であり、そういう生半可な覚悟で結婚へ踏み切れば、特に若いうちは幻滅の痛苦に悩まされるだろう。

 尤も、彼女は年齢に似合わず確りした女性であるから、そんなことは知悉した上で決断を下したのだろう。私はただ祝福するばかりであり、尚且つ祝電が無事に式場へ届くことを祈るばかりである。

*引き続き、蝸牛のような速度で三島由紀夫の「鏡子の家」(新潮文庫)を読んでいる。入れ代わり立ち代わり登場する四人の青年の人物像は、過去の三島作品に登場した重要なキャラクターの造形を引き継いでいるように見える。銘々に託された思想の性質は互いに異なっているが、その根底に伏流するニヒリズムの重要性は共通している。尤も、ニヒリズムという言葉を安直に用いたところで、我々の視野が拓けることはない。虚無と一口に言っても、その含意の射程は幅広く、曖昧な多義性に染められている。

 ニヒリズムの重要な機能は、対象の確実な滅亡を予期することで、対象の担っている様々な意味や価値を予め殲滅してしまう点に存する。あらゆる事物から、意味や価値といった社会的な観念を剥ぎ取ってしまうニヒリズムの暴力性は、三島の文業を顧慮する上で、看過し難い重大な地位を与えられている。

 三島はニヒリズムが選び得る多様な形態を次々と自らの作品の中枢に象嵌した。同時に彼は、ニヒリズムを超克する為の具体的な方法を絶えず模索していたように思われる。鏡と他人の眼差しを通じて自己の実在を確認する「禁色」の南悠一や、あらゆる感性的な現実を褪色させる絶対的なイデアへの抵抗を試みた「金閣寺」の溝口は、そうした作者の内在的な実験の、好個の事例である。「鏡子の家」は、そうしたニヒリズムとの格闘の軌跡の、目紛しい見本市のような性質を帯びている。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)