サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(禍福・艱難・生きる歓び)

*生きていれば嫌なことも億劫なこともあるもので、同じように愉しいことも幾らでもある。その狭間でシーソーのように揺れ動くのが生きることの基本的な光景だろう。これと決めた道程を真直ぐに歩んで、疑いも何も持たずにいられたら、それはとても安逸で幸福なことだと思う。けれども、世の中はそんなに単純に出来ていないし、人間の心はとても可塑的で柔らかい。僅かな衝撃、僅かな圧力で直ぐに歪んで、重大な型崩れを起こしてしまう。

 愉しいことばかりで形作られた人生を誰もが希う。けれども、それが人生の本当の味わいと等号で結ばれているとは言い切れない。かつて坂口安吾は「苦しむこと」に人生の本領があり、人間の尊厳があると書き遺した。確か車谷長吉も似たようなことを、何処かに書いていたように記憶している(新聞の身の上相談の欄であった気がする)。

 苦しむことが総てであるとは言わないが、辛酸を嘗めることで人生の本質的な光景を瞥見し得るというのは事実かも知れない。少なくとも艱難辛苦は、人間の精神から余分な幻想、虚しい幻想を削ぎ落とす効能を持っている。苦しみを味わった後で、世界は相貌を革める。今まで理解し得なかった幸福に気付くこともある。痛みを通じて学ぶことは数多い。安楽だけを選んで歩くのは、長い眼で見れば不幸なことなのかも知れないのだ。それは人生の本質的な側面からの逃避であり、いわば砂糖菓子ばかりを好んで、薬味も香味も知らずに死ぬようなものである。人生を丸ごと味わう為には、幸福だけを希求する訳にはいかない。灼熱の地獄の上にも、稀な味覚が存在している。幸福だけを望むのは幼児の嗜好であり、不幸の味を知ることは、例えばコーヒーの苦みに美味しさを見出すようなものだ。その意味では、不幸な境涯に陥ったとしても、それゆえに他人を羨んだり、自身を嘆いたりする必要は少しもない。清廉潔白、品行方正は紛れもない美徳だが、正しいものだけを選んで生きようと試みるのは退屈であり、同時に驕慢である。過失と錯誤の中にも、人生の重要な側面は埋め込まれている。生きることは、安楽のみに恋い焦がれることではない。如何なる苛酷な現実にも眼を凝らしてみせる覚悟だけが、人間を後悔と無縁の境遇へ導いてくれるのである。