サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(酷暑・京都・夏の光り・サカナクション)

*酷暑が続いている。茹だるような暑さという表現の相応しい日々が、人の生命さえも奪っている。娘は体温が上がると蕁麻疹が出る。汗疹も出るので、二重の苦しみだ。止むを得ず家ではずっと冷房を利かせている。機嫌の悪い娘を見るのは辛いのだ。

 八月の盆休み明けに、会社の選抜研修で京都へ行くことになった。生憎、日帰りの強行軍だが、それでも私は京都に起源の不明な愛着を持っているので素直に嬉しい。しかも、旅費は会社の金で賄われる。研修であるから賃金も発生する。思わぬ成り行きで京都の土を踏めることになったのだから、私は幸せ者だ。

 八月の夥しい夏の光りのイメージ、そこから私は三島由紀夫の文章を想い出す。

 敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験に他ならなかった。今も私の前には、八月十五日の焔のような夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するということを語っている永遠。(三島由紀夫金閣寺新潮文庫 P81-P82)

 二十代の後半、私は三年続けて夏の京都へ旅行に出掛けた。元々は大阪府の北辺の生まれなので、学校の遠足や社会科見学で京都の市街を訪ねる機会も多かった。友人と四条河原町へ映画を観に行ったこともあった。盆地ゆえの京都の酷暑は広く知られている。日盛りの夏の京都を歩くのは苦行そのものである。それでも私は、あの噎せ返るような夏の暑さに破滅的な憧れを懐く。古びた地名に、夥しい寺社仏閣に、規則正しく引かれた道路の歴史的な秩序に、数多の観光客の好奇心に常時晒され続けて、すっかり仮面と本音の使い分けに熟達してしまった、高級で老獪な娼婦のような性質に惹かれる。

*この記事を書いているパソコンからは、サカナクションの「多分、風。」という楽曲が流れている。サカナクションの音楽にはいつも、近未来的な不安の感覚が鏤められていて、それが私の心臓を揺さ振り、名状し難い感情を浮き上がらせ、煽動する。この奇妙な感覚の正体を明晰な言葉で名指すことは難しい。単純なダンスミュージックではなく、宗教的な朗誦のような、不可解な祈りの情熱を含んだような、それでいて澄明な音楽。歌詞は明確な感情や情景を描写する為に用いられる訳ではなく、ひらひらと揺れる花弁のように極限まで軽く削がれ、千切れた金箔のように、祈りの表層を覆っている。それは薄片の表皮、虚無的な音の連なりの輪郭に被せられた精妙な箔押しの言葉たちだ。言葉は明瞭な意味に縛られず、明確な感情の告白にも結び付かず、曖昧な何かを表示している。論理的な根拠は生憎示せないが、サカナクションの音楽は全体的に「祈祷」や「真言」に似ている。