サラダ坊主日記

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ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 1

 三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 三島が数多く遺した長篇小説の内でも大部の範疇に属する「鏡子の家」は、同時代の批評家や読者から冷遇された失敗作として語られることが多い。けれども、私自身の感想としては、この作品は聊かも価値の低いものではない。「金閣寺」の緊密な構成と精錬された観念的な告白体の魔術的な魅力に感服した人々にとって、確かに「鏡子の家」は、余り流麗とは言い難い文体によって綴られ、挿話の並列的な構成によって構築された、冗長な小説であるように感じられるかも知れない。だが、例えば「永すぎた春」のように軽妙洒脱な小品の娯楽的感興や、或いは抑制された澄明で理智的な筆致で綴られた「美徳のよろめき」の典雅な愛慾の手触りに魅せられたからと言って、同様の品揃えを執拗に作者へ強請るのは読者の我儘というものである。恐らく「鏡子の家」は、作者の従前の文業と、彼自身の実存の内部に埋め込まれた重要な主題の悉くを一挙に詰め込んで煮立てた複雑な大作であり、そもそも万人の気軽な嗜好に適合するようには仕立てられていない。読者や批評家の眼に「鏡子の家」が退屈な失敗作に過ぎないと思われても、作者自身にとっては「鏡子の家」という奇怪な長篇を書き綴ることは避けて通れぬ重要な文学的課題であったに違いない。生きることと書くこととの間に不可分の癒着した関係性が備わっている本物の作家であった三島由紀夫にとっては、時に評家や愛読者の審美眼に叛いてでも、己の人生にとって必要不可欠な主題に作品の執筆を通じて全身全霊の力で取り組むことは断じて回避することの出来ない道筋であった筈だ。彼が若しも単なる娯楽的な商品を製造して生計を立てることだけに意を尽くす人々の仲間であれば、こんな個人的で独善的な、錯雑した告白のアマルガムを、態々印刷して巷間に頒布しようとは無論考えなかっただろう。

 「鏡子の家」には、過去に三島が試みてきた多様な文学的企図の範型が悉く詰め込まれている。彼が四人の青年を造形し、鏡子という女性をいわば蝶番のように配置して、目紛しく舞台を入れ替えながら銘々の物語を構築していく形式を選択したのは、過去に生み出され、挑戦された多様な範型を一斉に羅列して、総決算を図ろうと考えた為であろう。彼は過去の自分が世間に向かって提示してきた文学的範型を改めて点検し、その原理的な可能性を丁寧に敷衍して、そこからの根源的な脱却へ舵を切ろうとしたのではないか。

 三島由紀夫が「鏡子の家」において取り組もうとした主題は「ニヒリズム」である。そのことは、作者自身が明言している。

 「鏡子の家」は、いわば私の「ニヒリズム研究」だ。ニヒリズムという精神状況は、本質的にエモーショナルなものを含んでいるから、学者の理論的探究よりも、小説家の小説による研究に適している。

 登場人物は各自の個性や職業や性的偏向の命ずるままに、それぞれの方向へ向って走り出すが、結局すべての迂路はニヒリズムへ還流し、各人が相補って、最初に清一郎の提出したニヒリズムの見取図を完成にみちびく。それが最初に私の考えたプランである。しかし出来上った作品はそれほど絶望的ではなく、ごく細い一縷の光りが、最後に天窓から射し入ってくる。(「裸体と衣裳」『三島由紀夫文学論集Ⅱ』講談社文芸文庫 p.202)

 ニヒリズムの厳密に学術的な定義に就いては、生憎私は無智であるが、大雑把に言えば「意味の否定」という言葉に集約されるだろう。如何なる意味も価値も表層的で幻想的な仮象に過ぎず、生きることの目的を設定してみたところで、それは恣意的な信仰の対象以上の地位を獲得することは出来ない。生きることに最終的な目的や理念を期待するのは無益な徒労に過ぎない。こうした虚無的な心情や感覚を、私は便宜的に「ニヒリズム」という大仰な単語で指し示したいと思う。

 ニヒリズムの観点から眺めれば、私たちの日常生活を覆う単調で反復的な秩序は、極めて不幸で陰惨な労役、如何なる報酬とも解放とも無縁の苛立たしい労役に他ならない。私たちは束の間の夢や希望や野心を掲げ、退屈な雑役にも明るい未来の幸福に資する固有の役割を認めることで、己の奴隷的な忍耐力に磨きを掛けるのだが、一旦膨れ上がったニヒリズムの波濤は、そうした健気な心得を一挙に押し流してしまう野蛮な暴力性を備えている。どんな夢想も翹望も、それを衷心より信じることが出来なければ単なる屑鉄ほどの価値も持ち得ない。そうした論理を極端に推し進めていけば、否が応でも「生存の無意味」という非情な現実に直面せざるを得ない。宗教的な物語、道徳的な物語、世俗的で功利的な物語の仮面を剥ぎ取ってしまえば、現実は如何なる人間的な「意味」とも無関係に、茫漠たる無機的な存在として、私たちの鼻先に顕現する。慌てて急拵えの「価値」を、華美な衣裳の如く「無意味」の輪郭へ纏わせたとしても、己自身の心情を説得出来なければ、そんな脆弱な偽装は直ぐに潰えて霧散してしまう。

 こうしたニヒリズムの度し難い病理的性質が、人間の精神から生きることへの積極的で倫理的な意欲を剥奪することは言うまでもない。あらゆる現実が意味も価値も有さないのであれば、私たちの生活と行動を縛っている一切の規矩は、その権威と拘束力を失ってしまう。如何なる意味も存在しない世界では、私たちの言動は常に任意の選択肢であることを強いられ、従ってその選択肢の価値を支える絶対的で根源的な天蓋への依存を期待することは不可能である。

 三島由紀夫という作家は、そうしたニヒリズムに対する真剣な憎悪を絶えず懐き続けた人物ではないかと、私は考えている。彼のドラマティックでロマネスクな事件に対する嗜好、潰滅的な破局への憧憬は、ニヒリズムに対する否定的な意志の所産であるように感じられる。ニヒリズムは、生きることの意味を根源的に否定する。換言すればニヒリズムは、生きることと死ぬこととの間に引かれている重要な境界線の効力を否認する。三島由紀夫の生涯において特徴的であったのは、退屈で反復的な日常生活に対する嫌悪から、ドラマティックで英雄的な死への欲望が喚起される点である。彼は平穏無事な日常性に含まれている倦怠と社会的な制約を根源的に嫌悪していた。彼の欲望は、そうした実存の堪え難い永遠性を叩き壊すことに向かって結わえ付けられていたのである。単調な生死の輪廻、類的な生滅の果てしない繰り返し、そうしたイメージは三島にとって絶望に値する悲惨な幻想であったに違いない。それならば寧ろ、陰惨な情死や忠烈な殉死、痛ましい夭逝のイメージの方が、天上的な輝きに満ちた「福音」に相応しい。少なくとも、それらの悲惨な死の形態には、倦怠と老醜に彩られた無味乾燥な生活を圧倒する目映い栄光が附随している。三島的な世界においては、栄光に満ちた死は無惨な長生よりも遥かに価値が高いのである。

 この世界に超越的な意味や価値を期待することは馬鹿げている。こうしたニヒリズムを踏まえた上で、彼はその無意味な空虚を破壊しようと試みる。ニヒリスティックな認識に抗って、生きることに特権的な輝きを賦与する為に、英雄的な死、華々しい滅亡というイメージを活用すること、それが三島の終始一貫して掲げ続けた審美的な倫理学の要諦である。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)