サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 2

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

 ニヒリスティックな認識、つまり世界には如何なる意味も価値も存在しないという認識は、予め定められた社会的=歴史的枠組みの内部に従属して生きる人々へ加えられた残酷な痛撃であると同時に、精神的な解放への第一歩でもある。

 しかしながら、ニヒリズムそのものの深刻な顕現は往々にして、人間の活力や情熱を薙ぎ倒す危険な災厄として作用する。人間は無意味な生活に忍耐する力を持たない。無意味な世界に何らかの意味を創出し、刻印しようと試みるのが人間の本質的な衝動である。けれども、そうした欲望は三島のように英雄的な死や華々しい滅亡へ憧れることと必ずしも同義ではない。日常生活の細部に審美的な眼差しを向けて、些細な僥倖や愉楽に感謝するような生き方も、ニヒリズムに対する精神的な処方箋の典型である。

 三島由紀夫という作家は、そのような日常性の原理に対する親和の感覚が稀薄な人物であった。その特異なメンタリティは、彼が昭和という年号の幕開けと共に生を享け、二十歳の時に敗戦による社会の急激な変貌を経験したという履歴を通じて培われたものなのかも知れない。だが、作家の示した特異な精神的類型の起源を、記録された伝記的な事実に還元して解釈する作業は、私の関心の埒外に置かれている。

 「仮面の告白」によって自らの文学的な才覚の絢爛たる輝きを世上に知らしめた三島の文業は、あの分厚い「禁色」という意欲的で挑戦的な長篇小説を経由して、有名な「金閣寺」によって崇高な絶巓に達したというのが私の個人的な見解である。「金閣寺」には、滅亡を予覚することで日常的な生存の堪え難い倦怠を超克するという三島的な論理の過程が明瞭に刻印されているが、同時にその掉尾には、濃密なタナトスに縁取られた自らの審美的な倫理学からの転回の徴候も簡潔に示されている。

 「金閣寺」における倫理的な悪戦苦闘を経て、作家は「鏡子の家」の執筆に着手した。彼は過去に想い描いたニヒリズムに対する処方箋の範型を悉く点検し、従来の方針を革めるという決断を、具体的な方法論の次元にまで高めようと企てたのではないかと思われる。それは彼が私生活においても、妻を娶り、持ち家を購い、子を生すという一連の「煩瑣な市民的義務」(「裸体と衣裳」)に殉ずることを選択しつつあった事実とも符節を合しているように見える。彼は生きることの根源的にニヒリスティックな性質に対する嫌悪から、英雄的で華々しい滅亡の幻想に酔い痴れる日々を選んできた。換言すれば、彼は無味乾燥な生存に対する絶望的な恐怖と常に伴走し続けてきたのである。彼は生きることを嫌悪し、美的なものの氾濫に憧れを懐きながら日々を乗り越えてきた。換言すれば、彼の主観的な論理においては、死と滅亡が最も崇高な「美」の象徴であったのだ。

 美しい死に対する憧憬、この特異な願望が三島の審美的倫理学の要諦であるという解釈は既に述べた。「金閣寺」には、そうした欲望からの撤退の方針が、金閣寺への放火という劇的な事件を暗喩として、隠然と示されている。「鏡子の家」においては、その方針は一層明瞭に、具体性を伴った分析の対象として解剖されている。ニヒリスティックな生存の論理に対処する為の方法の範型を交互に取り上げて仔細に観察し、その効用と限界と可能性を精密に調べていくことが、作者にとっては最も重要な意図であったのだと思われる。

①純然たる「行動」の充実と「外面化」の論理

 生きることの本質的にニヒリスティックな性格、つまり「この世界には如何なる意味も存在しない」という認識の齎す苦悩は、生きることの意義や価値を発見しようと試みる哲学的な労役を通じて培養される。世界に向かって意味を求める欲望が存在するからこそ、ニヒリスティックな「無意味」の認識が堪え難い暗黒の象徴として、人間の倫理的な情熱を駆逐する結果に繋がるのである。

 こうした欲望の息苦しい経済学を打破する為の単純な方法としては、生きることの意味をそもそも考慮せず、要求しないという選択肢が考えられる。意味に固執する内面的な論理を悉く揮発させ、純然たる外面的な現実に自己を融合させること、それによって現在の生々しい瞬間に化身し、如何なる意味とも無関係な「充実」を獲得すること、それが深井峻吉というボクサーを通じて形象化された一個の「範型」である。彼はニヒリズムという抽象的な観念、世界から疎外された観念自体を力尽くで揮発させ、無効化することによって、ニヒリズムの齎す価値崩壊の暴力から己の実存を防衛する。ニヒリズムという観念は、この世界に如何なる意味も価値も認めない、或いはそれが単なる幻影に過ぎないことを承認する思想であるが、それ自体が一個の意味であるという事実を看過してはならない。意味の喪失が重要な問題として脳裡に迫り上がるのは、その当事者が意味の体系に強く搦め捕られていることの証明である。

 ニヒリズムという問題の構成自体を否認すること、その為には意味や観念の魔手が及ばない領域へ遁走してしまうのが最善の合理的な選択肢である。意味や観念は常に現実の事件の後に生成され、錯雑した体系を構築する。そのタイムラグを利用して、総てが「事後」の状態へ到達する以前の段階へ留まり続けること、意味が附与される以前の純然たるニヒリズムそのものへ自ら化身すること、その為に肉体と行動という純然たる外面性へ忠誠を誓うこと、それが深井峻吉の示したニヒリズムからの脱却の方途である。

 まことに晴朗な峻吉は、憎悪や軽蔑に執着するたちではなかったが、ものを考えるということだけは軽蔑していた。思考を軽蔑する思想があるなどということは考えもしなかった。思考はただ彼の敵だったのだ。

 行動が、有効なパンチが、彼の世界の中核に位いしていた。思考は装飾的なもの、中核のまわりにこってりとかけられた甘いクリームのようなもの、何かしら剰余物として考えられた。思考は簡素の逆、単純の逆であり、スピードの逆だった。速度と簡素と単純と力とに美があるならば、思考はすべての醜さを代表していた。矢のように素速い思考などというものを、彼は想像することもできなかった。一瞬のストレートの炸裂よりも速い思考などというものがあるだろうか?

 考える人間の、樹木のようなゆっくりした生成は、峻吉の目には、憐れむべき植物的偏見としか映らなかった。文字に書かれたものの不滅は、行動の不滅に比べたら、はるかに卑しげであった。なぜならその価値自体が不滅を生むのではなく、不滅が保証されてはじめて価値が生ずるのであるから。そればかりではない。思考する人たちは、行動を比喩に使うことなしには、一歩も前進できない。大論争の勝利者なるものが、目の前に血みどろになって倒れている敵手の体を見下ろしているときの勝利者を思いうかべることなしに、どうして快感にひたれるだろうか?(三島由紀夫鏡子の家新潮文庫 pp.122-123)

 思考することへの軽蔑と嫌悪は、深井峻吉という人格の枢要を占めている。彼にとって停滞的な思考は醜悪の象徴であり、思考に囚われぬ一瞬の閃光の如き「行動」だけが、彼の審美的な規矩に合致するのである。彼はあらゆる理論、あらゆる意味、あらゆる観念を侮蔑することで、単純明快な実際家の仮面を被り、それによってニヒリズムの襲撃を免かれている。

 待つということ、もろもろの成熟をゆっくり待つということに対する素質が、この拳闘選手にまるきり欠けているのは、清一郎も知っていた。彼は清一郎と同じように、時間と未来の利益をまるで信じていなかった。何事によれ、利潤に代表される時間的収益を信じないこと、これが二人の共感の源泉であった。

 清一郎はつくづく、拳闘選手の固い顔の皮膚にきっちりとはめ込まれた、活々とした清澄な若い目を眺めた。今彼を狩り立てているのは欲望だろうか? そんなことは同じ男性である彼にも考えられなかった。神経的焦躁だろうか? 峻吉は神経的なタイプから遠く隔たっていた。おそらく峻吉は、何も考えないことの帰結として、現在の一刻一刻の、丁度この水だらけの卓の上にある鮮明な氷いちごと同様の、堅固な存在感をものにしていた。今、彼は、氷いちごのようにここに存在しており、目の前には自分の女が存在している。こういう単純な構図のなかで、拳闘選手は氷いちごを飲み、それからすぐこの場で女と寝るべきだった。できれば、今すぐ! この場で! 氷屋のテーブルの上で! そうしなければ、一瞬のちには、彼の存在は崩壊してしまうかもしれないのだ。(『鏡子の家新潮文庫 p.134)

 「時間と未来の利益」に対する根底的な不信は、峻吉が思考を軽蔑する人間であるという事実と符節を合している。今この瞬間の現実に自己の一切合財を投入している場合、人間の精神に複雑な思考の侵入する余地はない。現実から疎外され、現在から乖離した瞬間、人間の脳裡には記憶と想像力が氾濫し、過去と未来という二つの時間、しかしその根本において「非現在的である」という共通項を有する双子の時間が生成される。記憶と想像力、過去と未来が、人間の錯雑した思考の土壌であることは論を俟たない。現在の瞬間における没入は、その現在が如何なる未来に帰結するかという思考の勃興を禁じている。現在に総てを懸ける実存の様態は、未来の価値を信じる思考と根本的に相容れないのである。

 そうした峻吉の実存の形式における一つの審美的な理想は、彼の戦死した兄が象徴している。

 母親はしゃがんで香華を手向け、小さい数珠を太った指先にかけて、祈っていた。夏雄も手を合せた。峻吉は母親のうしろに立ち、雄々しい顔立ちを引き締めて、目は射るように兄の墓標を見つめていた。生きていれば三十四歳になる筈の、分別くさい、世俗の垢のしみついた憐れな兄の代りに、永遠に若々しい、永遠に戦いの世界に飛翔している輝やかしい兄を持つことは、彼を幸福にした。兄は行動の亀鑑だった。行動家にとって必須のものである、彼を行動に追いやるあらゆる動機、強制、命令、名誉の意識、……すべて男にとって宿命と分ちがたい観念であるところの義務の観念、加うるに、有効な自己犠牲、闘争のよろこび、簡潔な死の帰結、兄にとって何一つ欠けているものはなかった。その上兄には、今の峻吉によく似た俊敏な若々しい肉体があった。……それだけのものがみんな揃っていたら、あと永生きして、女を抱いて、月給をとるということが一体何だろう!

 他人を決して羨まない峻吉が、兄だけは羨んでいた。

『兄さんは狡いぞ。兄さんは退屈を怖れる必要なしに、考えることを怖れる必要なしに、まっしぐらに人生を駈け抜けてしまったんだ』と峻吉は心に呼びかけた。すでに峻吉の生活には、兄の一度も知らなかった日常性の影、生の煩雑な夾雑物の影がまざって来ていた。彼の行動には名分も動機も欠け、敵を倒せば倒すほど、その行為の抽象的な性質、その純粋すぎる性質に目ざめなければならぬ。彼の行為はああした夾雑物から身を護るためにますます純粋な成分になり、ひとたび彼の身を離れれば、たちまちエーテルのように揮発して、影も形も残さなかった。(『鏡子の家新潮文庫 pp.147-148)

 此処から読み取れる知見は幾つもあるが、一つの重要な論点は「日常性」という観念が常に未来の到来を予期して組み立てられているという認識に存している。過去の継承と未来への配慮、現在の単調な反復と持続、そうした「日常性の影」は、峻吉の提示している現在的で瞬間的な実存の様態と、根本的に背反している。「退屈」と「思考」は、日常性という観念的な構図を成立させる主要な条件であり、それら二つのものを峻吉は「生の煩雑な夾雑物」として措定している。

 換言すれば、峻吉にとっての「拳闘」は、早世した兄にとっての「戦争」の抽象的な模倣であり、不完全な複写なのである。戦没と滅亡の予覚に彩られた軍人の苛烈な実存は、未来の断絶という条件によって、日常性の蠱毒を本質的に免除されている。峻吉は拳闘に没頭することで、戦没した兄の様々な「美徳」を獲得しようと試みている。それは「時間と未来の利益」を全く考慮しない、純然たる行動、手段ではなく目的と化した行動の美徳である。

 だが、兄にとっての「戦争」は、峻吉にとっての「拳闘」と異なり、社会と国家の命令に基づく大義を備えていた。兄の戦死は決して、それ自体が目的と化した行動、遊戯的な行動の範疇に属するものではなかった。この重要な相違点は、峻吉の選び取った実存の様態を狂わせる根源的な矛盾として作用している。

『……しかし俺は強いんだ』と考えて少し安心した。が、その強さはこの世の機構と精妙に結び合わされていて、兄のように天へそのまま突っ走って行ってしまう力ではなかった。永生きをさせ、女を抱かせ、月給をとらせるような強さ。……日常性のねばっこい影や、生の煩瑣な夾雑物からのがれて、彼がその強さの中へ、力の中へ逃げ込めば逃げ込むほど、その強さ、その力は、却って彼を平俗な生活の織物の中へ、ますます深く織り込もうとするのであった。(『鏡子の家新潮文庫 p.453)

 「戦争」は、人々の日常的な生活を瓦礫の山積する廃墟へと作り変えてしまう超越的な行動の典型であり、戦争に挺身することはそのまま「日常性のねばっこい影」からの強制的な離脱を意味している。しかし峻吉の関わっている、興行としての「拳闘」は、それ自体が「平俗な生活の織物」の発する要請に基づいて形成された、いわば「戦争」の戯画に他ならない。リングの上の勝利は、彼に社会的な栄光を授けるが、その栄光は飽く迄も「日常性の影」に内属する名誉であって、幾ら肉体的な「強さ」を究めてみても、そうした厖大な労力が峻吉を「生の煩瑣な夾雑物」の泥濘から救済することは有り得ない。彼の憧れる英雄的な死の観念は、つまり純然たる行動の化身として生きることに対する憧憬は、擬似的な充足によって報われるのが精々なのである。

 しかも峻吉は、酒場での詰まらぬ諍いの為に、大事な拳を破壊されてボクサーとしての生命を断ち切られ、その擬似的な充足さえも奪われてしまう。拳闘を通じて純然たる行動の化身として生きることを追求し続けてきた彼の思想は、重大な蹉跌に直面する。完全なる外面性の論理、あらゆる意味や観念を引き離す俊敏な「肉体」の思想は、その脆弱性を露わにして倒壊する。

 峻吉はここ数週間のうちに、今まで全く知らず、それゆえ怖れてもいなかった、思考というものの皮肉な性質を思い知った。考えないことが、恐怖を免かれる唯一の方法だと、以前の彼は確信したが、そんな成果は努力に出たことではなくて、ただ彼の幸運がそれを保証していたにすぎなかった。今では、考えないということは、怖ろしい努力の要ることだった! この努力が今では彼の唯一つの勇気の証拠になった。(『鏡子の家新潮文庫 p.487)

 肉体的な思想、常に具体的で現在的な行動を通じて表象される明晰な思想は、些細な事件の為にこうしてニヒリズムの波濤に浚われ、その質実な外殻を浸蝕されることとなる。彼は失われた目的と栄光に固執する余り、益々ニヒリズムの深淵に没落していく。

 こうした態度の結果として、却って彼の目に迫る世界はすみずみまで異様な非現実感を帯びだした。すべてはもとのままだった。それでいて沈んだ鐘の音の余韻が、いつまでも大伽藍の裡に漂って、壁の罅の奥にまでしみわたるように、そこには無意味が鳴りつづけていた。彼が認めようが認めまいが、一つの無意味も、以前と同じ姿の無意味ではなかった。……こんなときには、絶望が大きな助けになる。しかし峻吉は、希望がきらいなのと同じくらい、絶望がきらいであった。(『鏡子の家新潮文庫 p.488)

 けれども、拳闘という至高の生き甲斐を喪失した後も猶、峻吉は従前の哲理を、つまり「肉体」と「行動」の思想を貫徹しようと試みる。それが峻吉の直面する世界を夥しい無意味で満たすとしても、彼は方針の転換を拒絶する。そして彼は知己から右翼的な政治団体へ勧誘され、その思想的な内容に全く理解も共感も示さぬまま、そこに「肉体」と「行動」の思想の捌け口を発見して血判を捺す。

「今はどうなんだ。少くとも今はボクシングは、お前の目的じゃない。目的ではないが、依然としてお前はボクシングを信じたいと思っている。あるいはまだ信じているつもりでいる。……しかしさっきも言った永い永い時間がお前の前に控えているぞ。いやな、お前の一等きらいな『未来』が控えているぞ。……目的ではなくなったものを信じようというのが、お前の目前の生甲斐なら、いいか、そんなあいまいな希望の目盛をはっきりと合せてみろ。お前は今、全然信じないものを目的にすることができる、という好適の状況に居る筈だ」(『鏡子の家新潮文庫 pp.500-501)

 「全然信じないものを目的にすること」ほど、峻吉の懐いてきた実存の方針に相応しい選択は、他に考えられないのではないだろうか。自ら敢えて徹底的に意味を排除することでニヒリズム蠱毒を免かれるという峻吉の思想は、思考の泥濘に陥没することで危殆に瀕した。そこから恢復を図る為には、再び一切の思考の否定に着手しなければならない。その為には「全然信じないものを目的にすること」が是非とも必要なのである。

 峻吉はようやくはっきりと、自分が自分を売りつつあるのを感じた。『芒のいっぱい生えた分譲地を売るように、俺の未来をこいつに売り渡そう。俺は永遠に考えず永遠に目をさまさない、永遠に眠っている力の持主になる。それこそは力の保証する本当の幸福の意味だ。』こんなことを漠然と感じた。(『鏡子の家新潮文庫 p.502)

 「永遠に考えず永遠に目をさまさない」ことは、現在の瞬間に埋没して生きる者にとっては必須の心構えである。峻吉にとって、自らの「未来」を他人に捨て値で売却することは聊かの痛苦も意味しないだろう。彼はそもそも「時間と未来の利益」に対する頑迷な叛逆者なのだから。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)