過日、妻子を伴って二泊三日の岩手旅行へ出掛けて来た。その備忘録を認めておく。
私にとって岩手県は未踏の地である。そもそも東北地方に余り縁がなく、昨年の夏に訪れた仙台も、初めて足を踏み入れた場所であった。旅先の選定に際して、未踏の地であるという事実は、それだけで有力な候補地に相応しい条件となる。余り混み合っていない場所が良い。如何にも観光地らしく整備された土地よりも、聊か主流から外れた場所が望ましい。
八月に入れば、盛岡市は夏の祭礼が相次いで、一挙に賑やかな土地へ変貌するらしい。その手前の閑散期を殊更に狙った訳ではないが、幸いにして七月の末の盛岡は空いていた。折悪しく、出立の直前に強力で執拗な台風12号が異例の進路を辿って登場し、無事に旅立てるか気を揉んでいたのだが、当日の時点で辛うじて台風は千葉を去っていた。
朝の五時過ぎに家を出て、JR幕張駅から総武線の各駅停車に乗り込む。津田沼で快速に乗り換え、日曜日の早朝だというのに混雑している電車の中を、立ったままで過ごす。娘が抱っこをせがみ、妻は十四キロの体重を誇る彼女を腕に抱えて、東京駅までの時間を堪え抜いた。優先席に座っている三人の乗客は誰も優先されるに値しない人々に見えたが、誰も席を譲ってくれようとしない。聊か腹立たしいが、気遣いを欠いた見知らぬ他人に気遣いを要求するのも馬鹿馬鹿しいので我慢する。
東京駅は相変わらず猛烈な人出である。平日であろうと週末であろうと、朝でも夜でも、この駅舎を往来する人々の数は常に眩暈を覚えるような厖大さだ。キャリーケースを引き摺って、複雑な経路を辿り、東北新幹線の乗り場を目指す。我々が搭乗する「はやぶさ」は、途中の駅を悉く黙殺する弾丸のような列車である。大宮を過ぎたら、後は仙台と盛岡にしか停まらない。
生憎、両眼を見開いて元気一杯の娘は眠りに落ちる兆しも見せず、凝と座席に陣取って二時間以上の退屈を乗り切る謹厳な根性とは無縁である。妻の手を曳いて、デッキへ遊びに行きたいと、思う存分駄々を捏ねる。騒ぎ立てる娘の頑固な要求に屈した妻がデッキへ拉致されていくのを横目に見ながら、知らぬ間に私は居眠りしていた。気付けば車窓の彼方に仙台の市街地の景色が映じている。昨夏の旅路の記憶が断片的に甦る。
午前中に辿り着いた盛岡駅は、千葉と変わらぬ息苦しい蒸し暑さに覆われていた。本州の県庁所在地の中では最も年間の平均気温が低い都市だと聞いていたが、いかんせん北上盆地に広がる内陸の街なので、夏場の日中は充分に暑いらしい。駅舎を出て、繁華な東口のバスロータリーの方へ出る。初日は盛岡市内のビジネスホテルに投宿して倹約に努め、二日目の晩は鶯宿温泉の高価な部屋へ泊まる段取りである。先ずはホテルへ荷物を預けに行くことになり、それほど遠方ではないので徒歩で向かおうと試みたが、ロータリーを渡って開運橋の方へ進む為の道筋が分からない。本来ならば地下道を用いるのだが、その時点では知らなかったのだ。見知らぬ土地の路線バスに重たい荷物とベビーカーを抱えて乗り込むのは気鬱である。夏の陽射しはじりじりと我々の肉体を蝕んでいく。旅情の齎す高揚に煽られ、私は早速タクシーを雇うことを妻に提案し、直ちに了承を得た。
涼しくて快適なタクシーによって瞬く間に運ばれた先のホテルは、如何にも年季の入った外観と内装を備えていた。全般に漂う黴臭い古めかしさは、盛岡駅から遠く離れた立地の悪さゆえに、改装に費やす金が捻出し難いのだろうという一方的な邪推を私の脳裡に育てた。尤も、大通り商店街に程近く、夜の盛り場へ赴きたい客にとっては申し分のない環境であろう。出張のサラリーマンには最適なホテルである。要は二歳児を連れた家族旅行には余り相応しくない選択肢であるというだけの話だ。そもそも宿泊費を倹約する為にJTBの出張応援プランというものを購った結果である。それに通された部屋は意外に広く、長椅子に寝そべって寛ぐことも出来る。何も殊更に不満を述べる筋合いはない。
ホテルに荷物を預けて、我々は近隣の盛岡城跡公園へ足を延ばした。日曜日だというのに寝静まっているように見える商店街の道を抜け(八月頭に催される盛岡さんさ踊りの手前の時期ゆえに、客足が鈍っているのだろうか)、交差点を渡って公園の敷地に足を踏み入れる。草生した城壁の石垣が視界を掠める。やがて行く手に小学校のグラウンドのような広場が現われ、ブランコや鉄棒が敷地の片隅に悄然と佇んでいるところへ出た。娘は地面に落ちている小石を拾ったり、私の膝に抱えられてブランコで遊んだりするだけで充分に満足している様子であった。
広場を抜けて太鼓橋を渡り、木暗い道を歩いて中津川の畔へ出る。そこから交差点の方へ視線を転じると、赤煉瓦のクラシックな建物が見えた。ガイドブックにも載っていた、昔日の岩手銀行本店である。現在は重要文化財に指定され、盛岡観光の一翼を担っている。道端で配っていた団扇を貰って、夏の陽光に煮え滾る体を冷ましながら、我々はその瀟洒な建物へ向かって横断歩道を渡った。