サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 3

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

②稀薄な「自己」とナルシシズムの原理

 稀有の美貌に恵まれながら、一向に売れる見込みのない役者稼業を営んでいる舟木収は、自己の稀薄な実在感に絶えず悩まされている。

「それから……」

 と又収は、不必要なほど詳細に寝台のなかの出来事を縷々と話した。話すにつれて、ますます彼には、自分が昨夜そこに存在しなかったかのように思われだした。糊のきいたシーツの鋭利な皺、かすかに退いてゆく汗、バネの利きすぎた寝台の船のような漂泊の感じ、……それはたしかに在った。それから快感が彼を離れてゆく瞬間のとめどもない安堵のようなものも在るには在った。ただ一つ、彼自身がそこに存在していたかどうかは確かでなかった。(三島由紀夫鏡子の家新潮文庫 P31)

 自分自身が確かに存在しているという実感を持つことが出来ない収の心理的秩序は、換言すれば、自分自身の存在の意味を実感出来ないニヒリズムの病弊に囚われていると看做すことが可能である。自分自身の役割、目的、価値、存在の理由を明確に信じられないとき、自己は霞のように稀薄化して、堅固な実体的性質を失う。

 収は自らの信念や決断に基づいて、己自身に対して明瞭で堅牢な輪郭を賦与することが出来ない。此れは如何にも現代的なニヒリズムの形態であろう。つまり、超越的な意味を信奉することの出来ない人間に固有の苦悩の形態である。彼は己の存在が究極的に無意味であるという陰鬱な深淵のような事実に束縛されている。自己の存在が如何なる種類の根拠によっても庇護されることのない虚無の塊であるという認識は、収を空漠たる不安の渦中へ幽閉する。そのとき、根拠を持たない自己の存在を保全する為の唯一の手懸りは、彼の卓越した美貌に限られている。尤も、優れた美貌だけでは、彼の内在的な虚無を完全に補填することは不可能である。

「弱虫。痩せっぽち」

 と女は収の一等いやがる悪口を言った。収は観念してぐったりと目を閉じた。胃の上の女の体の重みと、唾に濡れた自分の腋窩が、一連の気味わるく混濁した、遠いところから草の汁のようにこみあげてくる嘔気に似た感覚を以て感じられた。そのあいだにたえず擽ったさの予感が、風の来ないうちからそよぎ出す敏感な葉のそよぎのように、体のそこかしこを走っていた。『光子は僕を痩せっぽちだという。もし芝居で、裸体の役がまわって来たらどうしよう。僕は自分の顔にばかり気をとられていて、ついぞ体のことなんか考えたことはなかったんだが……。もし僕にもっと肉があったら、僕の存在はもう少し濃くなるだろうか? 肉それ自身がひとつの存在であり重量なんだから、肉をふやしたら僕の存在感は増加するだろうか? 濃厚化するだろうか? こんなにただ、液体みたいにたゆたっているだけの状態から脱け出ることができるだろうか? 自分の存在をたしかめるためには、しょっちゅう鏡を見ている他はない状態から』(『鏡子の家新潮文庫 P56)

 深井峻吉が純然たる肉体的な行動に、己の精神の一切合財を還元しようと試みたのと同様に、収は自らの存在の根拠を肉体的な条件の内部に発見しようと企てる。彼にとって「生存」とは、不確かで流動的な輪郭しか持ち得ない、或る抽象的な営為の集積である。言い換えれば、彼は自分自身の実在を確信することが出来ず、尚且つ確信する為の堅固な「意味」を保持することが出来ないのである。

 ニヒリスティックな現実に抵抗する為には、つまり如何なる「意味」も信奉し難い現実の渦中において、自己の存在を維持していく為には、あらゆる「意味」を超越した実在性の感覚を手に入れることが肝要である。「意味」という観念的な領域とは異質な次元で、彼は彼自身の存在の証明を獲得しなければならない。

 ――深夜の鏡に収の美しい顔は、くっきりと明晰に映っていた。

『ここにたしかに僕が存在している』と収は思った。男らしい眉の下の切れ長の目、その黒い澄んだ瞳、……どんな町角でもこれほど美しい青年に会うことはめったになかろう。今しがたの行為の影を露ほども残さない顔の明澄さに、収はみちたりた気持を味わった。

『友だちにすすめられたように、僕は重量挙をやろう。ふれれば弾くような厚い筋肉で体を鎧おう。そして体じゅうを顔にしてしまおう』

 そう思った。顔とちがって、筋肉は鏡を使わずとも自分でじっくり眺めることができるだろう。そして彼は自分の腕や胸や腹や太腿や、あらゆるところに自分の存在の堅固な証明を、その存在の不断の呼びかけを、その存在の詩を、ありありと眺めることができるだろう。……(『鏡子の家新潮文庫 P59-P60)

 感覚的な実在としての自己を確認すること以外に、自己の存在を信頼することは出来ない。こうした舟木収のニヒリズムの形式は、自己の肉体的な拡張という着想を発明する。彼は「精神」という曖昧な「意味」の複合体を信用していない。収が役者であるという事実は、彼が抱懐している「精神に対する不信」の深刻な性質を傍証している。演技は、他者の存在を「空虚な自己」という器の中に移し替え、一時的に滞在させる作業である。自己の実在を信じることの出来ない収が、他人の存在を自己の内部に憑依させる作業に情熱的な関心を寄せるのは当然の成り行きであろう。彼にとって演劇は、内在的な虚無の齎す飢渇を癒やす為の壮麗で重要な装置なのである。

 ああ、人に魅惑を及ぼし、陶酔を与えること、それは自分を風の姿に変えてしまうことであった。舞台に自分の肉体が、肉と血の上に美々しい衣裳をまとって、神殿のように聳え立ちつつ、しかも自分の目にはそれは見えず、熱狂した観客の目にも、俳優の姿は存在の形を超えた光りかがやく風の流動としてしか感じられぬこと、……肉体の鞏固な物的存在そのものが一の逆説と化すること、……そこに立ち、そこに語り、そこに動くことが、雀蜂の羽根の顫動のように、一個の目に見えるか見えぬかの虹いろの音楽になってしまうこと、……こういう事態の到来を収は夢みた。夢みていて何もしなかった。舞台上のそのような究極の転身、かがやかしい存在消滅の瞬間を夢みながら、いつも自分の存在のあいまいさ、放置っておけばかすれてなくなってしまうような恐怖におびえ、つかのまの存在の証しのために女と寝る。女はまず確実に、彼の美貌の魅惑にこたえてくれたからである。こたえてくれるものはもう一つある。女よりも忠実で、渝りなく。……それは鏡であった。(『鏡子の家新潮文庫 P65-P66)

 換言すれば、収は常に内在的な虚無を「他人」の齎す「意味」によって充填しようと企てるのである。女が彼の美貌に魅惑されるとき、収の「自己」は一つの具体的な意味を賦与され、その実在性は暫時の恢復を遂げる。他人の欲望、他人の賞讃、他人の視線が、収の内在的な虚無の暗黒を一時的に抹消してくれるのである。

 だが、彼の身辺に役者としての名声と栄光が降り注ぐ見込みは一向に立たず、女の賞讃は閨房における一過性の幻影に過ぎない。それだけでは、彼の曖昧な存在感が堅牢な基礎を確保するには至らない。他人の評価、他人の心情、他人の欲望、他人の意味ほど曖昧で流動的なものは他に考えられない。彼はもっと明確で自律的な「意味」の獲得を希求する。そうした虚無からの恢復を願う収の欲望に合致したのが、武井という男の「筋肉」に関する特異で極端な思想である。

 悲しんでいる筋肉の悲しみを見るがいい。それは感情の悲しみよりもずっと悲壮だ。身悶えしている筋肉の嘆きを見るがいい。それは心の嘆きよりもずっと真率だ。ああ、感情は重要ではない。心理は重要ではない。目に見えない思想なんぞは重要ではない!

 思想は筋肉のように明瞭でなければならぬ。内面の闇に埋もれたあいまいな形をした思想などよりも、筋肉が思想を代行したほうがはるかにましである。なぜなら筋肉は厳密に個人に属しつつ、感情よりもずっと普遍的である点で、言葉に似ているけれど、言葉よりもずっと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。(『鏡子の家新潮文庫 P83)

 聊か滑稽な響きを帯びて聞こえる武井の熱烈な演説には、内面的なものから外面的なものへの移行を図る三島の欲望の構図が明瞭に象嵌されている。「金閣寺」において内面的な地獄と、そこからの脱却という主題を華麗な筆致で描き出してみせた実績は、この「鏡子の家」においても半ば戯画的に活かされている。作者は複雑な意味の集積として形成される「内面」の価値に疑義を呈している。換言すれば、彼は精神的なもの、純然たる意味の複合体としての「精神」に、批判的な眼差しを向けている。だが、そうした三島的な主題に即して、舟木収という人物の個性を誤読するのは賢明ではない。収という人格の最も重要で尖鋭な特質は、彼が「内面」や「精神」や「心理」といったものの欠落或いは薄弱に苦しんでいるという点に存するのである。

 鏡子も夏雄も、ずっと前から収のこの特性に気づいていた。ちょっとでも黙ったが最後、彼のまわりには見えない城壁が築かれて、誰の介入も許さない彼だけの世界がそこに出現する。こんなことから、収は時として、退屈な男と思われたり、あるいはもっと見当ちがいなことには、空想家と見做されたりすることがあった。しかし少し注意深く見れば、彼には空想的なところがみじんもないことがわかっただろう。空想家でもなければ現実家でもない収、要するに収は、そこにいる収なのであった。鏡子はもうすっかり馴れていたから、このごろでは、「何を考えているの?」なぞと訊くこともなかった。

 それでいて、彼は孤独な男なのでもなかった。一人でいるとき、彼ほど孤独にみえない男は珍らしかったろう。この青年はしかし、チューインガムを嚙むように、いつも一箇の自家製の快適な不安を嚙んでいた。自分は今ここにいる。たしかに存在している。しかし一体、自分は本当に存在しているのだろうか、という不安。

 こんな不安は青年にとって別に珍らしいものではないが、収の特色は、それがいかにも快適な不安だったことであり、その快適さは多分、……いや、確実に、彼の美貌から来ていたのである。(『鏡子の家新潮文庫 P13-P14)

 美貌という優れた「外面」を天稟として備えた者が、殊更に「内面」という奇怪な意味の複合体を肥大させる必然性は決して大きくない。徹頭徹尾、感覚的な世界である「外面」の領域で一定の地歩を占める者が、濃密な「内面」の醸成に時間と労力を割かないのは当然の成り行きである。換言すれば、収が自己の稀薄な実在感に苦悩する理由は、彼自身の美貌に由来しているのである。

 自己の稀薄な存在感が「内面」の空虚によって齎されていると仮定するとき、深井峻吉の場合は、そもそも「内面」という領域を完全に扼殺して、外面的な行動へ自己の一切を投入するという戦略が、ニヒリズムの超克の為に選択されていた。峻吉の戦略は「肉体」に「存在」を還元するという意味で、収の選んだ道筋と表面的には類似している。しかし収の場合、肉体の鍛錬は純然たる審美的な営為として定義されている。武井の言葉を借りるならば、そこには「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」(『鏡子の家新潮文庫 P81)という規範が擁立されているのである。

 元来、ニヒリズムとは人間の内面に生ずる固有の病態であり、精神だけが患うことの出来る痼疾である。言い換えれば、内面が充分に存在しないという飢渇の感覚が、ニヒリズムの暗示する重要な症候なのである。峻吉は純然たる「行為」に没入することによって、そうした飢渇の生ずる根拠そのものを排斥しようと努めた。一方、収は純然たる「肉体」を審美的に培養することで、いわば「内面」の不在を「外面」の充実によって補填しようと試みるのだ。

 ――収はここへ来ると、次第に筋肉のしこりの募るのを感じていた。永いあいだ使われずにいた筋肉は、軽い呻きをあげて疲れを訴えていた。あしたの朝、体のそこかしこは、一せいに痛みの叫びをあげるだろう。こうした不安な内的感覚は、ふしぎに新鮮で、快くさえあった。土の中の種子の発芽のようなものが自分の体内に感じられる。今まで一度も意識したことのなかった筋肉が、眠りからさめて、かすかに蠢きだしたように感じられる。自分の内部の層が、心と肉と、はっきり二層に重なってくるようである。そう思うと、自分は精神をすこしずつ掻い出して、それを筋肉に変質させてゆきつつあるように思われる。いずれは精神は全部掻い出されて筋肉になるだろう。彼は完全に外面だけで作られた、完全に外面に浸透された人間になるだろう。心を持たない筋肉だけの人間になるだろう。……収はいつものようにぼんやり椅子に坐って、そこにいずれは、闘牛士のような、敏捷な筋肉だけの男が坐ることになるのを夢みていた。

『僕はそのときこそ完全に、ここに存在しているだろう。そうして今こんなことを考えている僕という人間のあいまいな存在は、そのときもう、影も形もとどめていないだろう』(『鏡子の家新潮文庫 P103-P104)

 ニヒリズムという「意味」への飢渇が、精神的な領域における痼疾であるならば、精神そのものを悉く肉体という物質に還元するという荒療治は、確かに一つの有効な選択肢として機能するだろう。但し収に関して言えば、彼はそもそも明瞭で堅固な「内面」を保有していないのだから、精神を肉体に置換していくという表現は厳密さを欠いているように思われる。彼は「内面」の欠如を「外面」の充実によって置換しようと試みているのであり、過剰な「内面」を「外面」の領域へ放流している訳ではない。

 けれども、充実した肉体=外面を確保したからと言って、彼が他人の欲望や視線と無関係な「実在感」を手に入れたと看做すのは聊か早合点である。恐らく、彼の「内面」の欠如は、常に他者による承認を飢渇のように欲している。彼が「外面」の充実に血道を上げるのは、それだけが他者による承認の頻度を高める唯一の方途であると信じ込んでいる為だ。彼は自らの美貌だけでは、他者からの承認を十全に得られないことを経験から学んだ。そこで肉体の審美的な鍛錬という新たな手立てに熱中した。無論、両者の差異は相対的な問題であり、幾ら肉体を鍛え上げたところで、内面の空虚という病理が本質的に改善されることはない。

 行為のさなかで、又しても彼の存在があいまいになる。融解される。保証がなくなる。すると孤独になって、自分が行為のうしろにぼんやりと置きざりにされる感じがする。さっきまであれほど彼の肉体を讃美して、その存在を目の前にありありとうかばせてくれた同じ女が、今度は目をつぶって、女自身の陶酔の底深く陥没してしまい、全体的な収の存在とは関わりのないものになってしまい、呼べども答えぬ遠くへ沈み去ってしまうのである。(『鏡子の家新潮文庫 P226-P227)

 内面の欠如に苦しむ収が、自己の実在感を恢復する為には、他者による審美的な「保証」が不可欠である。しかし、他者は必ずしも収の稀薄な「自己」の実在を保証する為に生きている訳ではない。この素朴で基礎的な常識が、収の飢渇を無際限に長引かせる。彼の内面的な空虚は、他者の承認の有無によって、その解消の可否が決定するが、当然のことながら、収という存在を絶えず無条件に是認し、片時も彼の肉体に対する讃嘆を閑却することのない隷属的な他者は、この世界には存在しないのである。

 それでも彼は、己の美貌と逞しい肉体を只管に錬磨して、より多くの嘆賞を得る為に努力を重ねるほかない。彼の選択した実存の原理が、それを要求するからである。無論、それは彼の内面的な充実の為に欠かせない努力であるが、同時にその努力は彼を著しく疲弊させる。峻吉が片時も休まずに「行動」を必要としたように、収もまた絶えざる「賞讃」を得る為に、舞台の上の華々しい脚光に憧れると共に、様々な女との情事を積み上げていかざるを得ない。そうしなければ、堪え難い空虚が堰を切って彼の総身を呑み込んでしまうだろう。

 友情という言葉には偽善がある。二人はむしろお互いの性的無関心をたのしむ間柄だった。というのも、相手方の不断の性的関心を必要とする点で、二人はお互いに似すぎていたからだ。この二人の間柄は、休戦と安息をたのしむ間柄だった。それに鏡子は他人の情念が好きだったし、収は自分の情念に飢えていたのである。

 映画がおわると、鏡子と収は又しばらく腕を組んで、寒い夜の街を散歩した。『愛し合っていないということは何と幸福だろう。何て家庭的な温かみのある事態だろう』と収は思った。『この女の前では、僕は、自分がスペイン風の顔をしている、などと改めて思ってみる必要もないんだ』――幸福のあまり、収はこんなことを言った。

「ねえ、八十歳になったら、僕たち結婚しようね」

 寒さのためにかすかに痺れる頬が、鏡子をも、幸福と見紛う気持にさせた。

「八十になったら、そうね、八十になったら、私きっとあなたと結婚するわ」(『鏡子の家新潮文庫 P230)

 この二人の会話は重要な暗示を含んでいる。「八十」という年齢は一つの象徴的な数字である。老境を迎え、他者からの「不断の性的関心」を確保し得る見込みが乏しくなったとき、収の現在の実存的原理は致命的な危殆に瀕するだろう。容色が衰え、自慢の肉体が崩壊へ向かって滑落していくとき、彼は己の実存を支える唯一の根拠を喪失するだろう。

 とうとう耐えかねて、夏雄はこう言った。

「そんなに筋肉が大切なら、年をとらないうちに、一等美しいときに自殺してしまえばいいんです」

 夏雄の語気はいつになく強く、いつになく怒気をあらわにしていたので、一同が黙って顔を見合わすよりさきに、こんな夏雄をはじめて見る収が、愕きの目を向けた。

「あなた方はみんな年をとるんだ。生身の筋肉なんて幻にすぎないんだ」

 夏雄は時の勢いで、ますます昂奮して、そう言った。武井は負けていなかった。

「なかには君のように、はじめから年寄りの憐れな男もいる。情ない弱虫の芸術家で、僕らに腕っ節ではかなわないものだから、この世の筋肉がみんな滅びればいいと思っているんだ」(『鏡子の家新潮文庫 P278)

 この夏雄の発言は収にとって決定的で呪詛に満ちた「予言」のように聴こえただろう。人間が誰しも老衰と滅亡の接近に抗えないという端的な事実は、収の実存にとって最も手強く明瞭な「危機」である。彼の実存の根拠は、つまりニヒリズムに対する抵抗の根拠は、否が応でも牢固たる「有効期限」を受容せねばならない。この想像は、収の心に看過し難い絶望の種子を育むだろう。

「女たちが君を待ってるだろう」

「さあ、どうだか。僕はそんなに女が好きじゃないんだ」――そう答えかけた収は、こんな自分の断定に押されたように、少し情熱的な口調になった。「本当に女が好きになるには、自分が空っぽにならなくちゃならない。ところで僕は自分が空っぽになるのが怖いんだから」

「僕は自分が空っぽになるのが好きだ」

 と夏雄は制作の時の気持を思い浮べて言った。そしてこう訊いた。

「君は一体何になりたいの?」

「何になりたいって?」――収は美しい目を丸くした。

「もとは俳優になりたかった。つまり、何というかな。人間から辷り出したかったんだ。うまく、こう、するっと人間から辷り出す。それができれば俳優でなくたっていいんだ。僕はもう何かになったんだ。僕は成功したよ。筋肉がこんなについた」

 彼はスウェーターの腕を上げて、毛糸の織り目ごしにそれとうかがわれる力瘤を見せた。夏雄はそれにおどろいてみせるのを忘れなかった。(『鏡子の家新潮文庫 P280)

 彼が数多の異性と情事を重ねるのは、己の内面の空虚を癒やす為である。秀麗な美貌も錬磨された肉体も、内在的な虚無を塗り潰す為の手段として用いられる。恐らく彼が役者として大成しない背景には、己を「空っぽ」の状態に留めておくことが出来ないという心理的な理由が介在しているのではないだろうか。触媒のように、自分自身は固有の役割も明確な存在感も持たずに、黙って世界が己の内部を通過していくことだけを、己に課せられた存在の理由として引き受けること、それこそが役者の本領であるのに、収は役柄よりも己自身の存在の露骨な顕示を希求している。その意味では、彼が「俳優」よりも「筋肉」の方に根源的な救済を見出すのは自然な理窟である。

 換言すれば、収は如何なる「意味」によっても占有されることのない「空虚」として存在しており、しかも本人は自己に内在する度し難い「空虚」に堪え難い恐懼と不安を懐いているのである。

 その「或るもの」とは何だろう。死だろうか。虚無だろうか。それとも危機だろうか。いずれにせよ、収には、精神が自分の内部で培われて育ってゆくという考えは微塵もなかった。精神はいつも灝気のように外部に漂っていて、何かの時に憑きもののつくように、舞台上の俳優に襲いかかって、つかのまの人間の姿態を借りて発現するのであった。

 この射たれた金髪の若者は、あざやかな光線を浴びてのけぞった一瞬の姿態が、正確に何を意味するかを知らない。それは目もまばゆいほど明確な存在ではあるが、精神が存在の中にのびのびと身を休めるこんな瞬間には、人間は存在することだけで一杯なのだ。舞台の上にはこのような奇蹟がある。そして、悲しいかな、収は一度もその奇蹟をわがものにしたことがないのである。(『鏡子の家新潮文庫 P328)

 収は何故一度も「奇蹟」に恵まれることがないのか。それは彼自身が明確に、内在的な「虚無」の存在を拒絶しているからである。彼は決して「奇蹟」に愛されていないのではなく、彼自身が「奇蹟」の到来する条件を排斥しているのだ。彼は飽く迄も「自分」というものに固執しており、堅固な輪郭を備えた「自分」を構築することに最大の関心を払っている。その情熱の焦点は他人に向けられていない。夥しい女と情を交わしながら、彼は一度もそれらの女を積極的に愛してはいない。何故なら、収の異性に対する情熱は、女たちの存在が彼の「自己」の確立に必要な精神的養分を補給するという点に煽動されているからである。彼にとって異性は「目的」ではなく「手段」に過ぎない。だからこそ、彼は純然たる媒体として他者の到来を歓待する僥倖に恵まれないのである。

 完全な自己抛棄のためにも、完全に相手を所有するためにも、肉の営みは、あんまり軽すぎ柔和すぎる結びつきで、それは何かもっと厳密で正確な怖ろしい所有の、幼稚な模倣にすぎないように思われた。女の肉自体が軽率で柔らかすぎた。それは詐欺のようなものだった。鞠子の言葉は、収の見事な筋肉の鎧をしきりと讃嘆したものだが、彼女の肉は、それをとことんまで讃嘆することに失敗したのだ。(『鏡子の家新潮文庫 P338)

 彼は情事においても、相手の陶酔に向かって全面的に奉仕する愉悦を望まない。自らの性的な陶酔の中に耽溺し、埋没していく女の姿を目の当たりにすることは、彼の求める愉悦の形式とは全く異質である。その意味において、収には異性を、或いは他者を愛する能力が決定的に欠けている。彼の精神を根源的に浸しているナルシシズムの機制は、こうした愛慾の場面において顕著に明示されている。彼にとって他者は「鏡」に過ぎず、しかも己の外面的な美しさを絶対的に証言する従順な「鏡」でなくてはならない。そうした「鏡」の魔力だけが、彼を内面の空虚から庇護してくれるのである。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)