サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

理想と現実、論理と情熱、厖大なる「空虚」 三島由紀夫「宴のあと」

 未だ「鏡子の家」に関する感想文を書き終えていないのだが、三島由紀夫の『宴のあと』(新潮文庫)を読了したので、記憶が褪せる前に記録を遺しておきたいと思う。

 日本における「プライヴァシーの侵害」という法律的闘争の先駆的な事例という枕詞が何時でも付き纏う為に、不当な偏見を通じて眺められることも多いのではないかと思われる「宴のあと」は、そうした社会的な要素を洗い流して繙読してみれば、実に巧みで秀逸な作品である。公刊の当時は、他人の醜聞を仔細に詮索するような積りで、つまり誇大な野次馬根性に衝き動かされて物語を追った読者も少なくなかっただろう。しかし、そういう通俗的な関心を持ち難い後世の読者の眼にも、この「宴のあと」という小説は魅惑的な感銘を授けるに違いない。

 この作品を、日本的な政治の現実を鋭く剔抉したものであるとか、恋愛と政治との相剋を巧みに描き出したものであるとか、そういう具合に評価するのは、行き届いた解釈であるとは言い難い。無論、頗る大雑把に図式を拵えれば、この作品において描かれているのは、廉直な理想主義を掲げる野口雄賢の「革新」と、情実と欲望に塗れた現実主義を信奉する福沢かづの「保守」との複雑な絡み合いと決裂の顛末であると言い得るかも知れない。少なくとも、新潮文庫のカバーに綴られた「恋愛と政治の葛藤」という要約の文言は適切ではない。「宴のあと」において「恋愛」と「政治」は重層的に複合している。換言すれば、作者は「恋愛」と「政治」を同一の次元に封じ込めた上で、犀利な知的解剖を施しているのである。

 尤も、恋愛の政治的性質を解剖するなどということは、作者にとって聊かも目新しい挑戦ではない。早くからフランスの心理小説の伝統に親しみ、その日本的な移植を幾度も試みてきた三島が、華々しい文学的成功の累積の涯に猶も、鍛え抜かれた名人芸を披瀝するだけで、夥しい讃辞に肥大した己の野心を充分に満足させられたとは思えない。同時代の社会的事件に取材し、精緻な心理的駆け引きの百面相を綿々と描写する自家薬籠中の造作の端々に、彼が今まで様々な作品を通じて取り組んできた「虚無」の主題が、油脂の如く滲んでいることを看過すべきではない。

 恋はもう私の生活を擾さない、……かづは靄のかかった木の間からさし入る荘厳な日ざしが、径のゆくての緑苔を、あらたかにかがやかすのを見ながら、こういう確信にうっとりした。彼女が色恋と離れてしまってからもう久しかった。すでに最後の恋もとおい記憶になり、自分があらゆる危険な情念に対して安全だという感じは動かしがたいものになった。

 こんな朝の散歩は、かづの安全性の詩だったのである。年は五十あまりだが、美しい肌と輝く目を保った身ぎれいな女が、こうして広い庭の朝をそぞろ歩く風情を見たら、誰しも心を搏たれて、何かの物語を期待するにちがいない。しかし物語は終り、詩は死んだことを、誰よりも知っているのはかづ自身である。もちろんかづは自分の裡の鬱勃たる力を感じている。同時にその力がすでにたわめられ、御せられて、決して羈絆を脱して走り出したりしないことをよく知っている。(『宴のあと』新潮文庫 p.8)

 これは「鏡子の家」に描かれたような空虚な青年たちとは異質な境涯、既に充分な社会的栄達を手に入れ、恵まれた余生が黙って拱手していても自ずと転がり込んでくる富貴な境涯である。だが、そのような富貴の立場が、如何なるニヒリズムとも無縁であると言えるだろうか? 人間の精神を蝕む「虚無」の邪悪な毒性は、社会的栄誉などという不確実な証文によって駆逐することが可能だろうか?

 もう永いこと、かづは盲目になった経験がない。何もかもこの庭の朝の眺めのように、明澄に見晴らしが利き、すべてがくっきりした輪郭を伴ってよく見え、この世にはあいまいなところが一つもない。人の肚の中も全部見透しのように思われる。もう愕くべきことも、そんなにたんとはない。人が利害のために友を裏切ったときいても、ありがちなことだと思うし、女に迷って事業に失敗したときいても、よくあることだと思う。ただ自分がそんな目に会わないことだけは確実なのである。

 かづは人から色事の相談をもちかけられると、てきぱきと巧い指示を与えた。人間心理は数十の抽斗にきちんと分類され、どんな難問にもいくつかの情念の組み合せだけで答が出た。人生にそれ以上複雑なことは何もなかった。それは限られた数の定石から成立ち、彼女は隠退した名棋士で、誰にも的確な忠言を与えることのできる立場にいた。だから当然「時代」を軽蔑していた。いくら新らしがったところで、人が昔からの情熱の法則の例外に立つことができようか?(『宴のあと』新潮文庫 pp.9-10)

 しかし現実には、限られた駒の組み合わせである筈の将棋は未だにその全容を解明されておらず、況してや人間の錯雑した心理を有限の関数の絡まりに還元することなど出来る訳がない。こういう言種から、私は坂口安吾の「老成の実際の空虚」という言葉を想起する。結局のところ、こうした明澄な視野は、不透明な現実の側面を捨象することで、辛うじて保たれているに過ぎない。つまり、かづの「安全性の詩」は単なる暫定的な偶然の賜物に他ならないのである。

 意地悪な作者は、かづの身柄を安全な領域から、政治と恋愛の渦中へ突き落としてみせる。野口に対する慕情に身を焦がし、同じ墓に眠るという抹香臭い幻想の虜と化したかづは、降って湧いたような都知事選挙の騒乱に己の一切合財を投じて、総てを失う。革新党の高潔な理想主義が、保守党の腐臭芬々たる金権政治に敗北を喫したことは、錯雑した現実の部分的な断面に過ぎない。それを「日本の非政治的風土を正確に観察した」と評価するのは、外国の「政治的風土」に対する憧憬か、或いは迎合的な配慮の反映に過ぎない。重要なのは、かづが再び「盲目」の境涯へ向かって跳躍し、世界の可塑的な性質を体感することである。物語の冒頭において「かづは今やこの庭に対するように、人間や世間に対している。そればかりではない。彼女はそれを所有しているのだった」(p.11)と綴られている彼女の明澄な視野は、様々な事件を経由して情熱的な「盲目」の境涯を恢復する。

 かつて小さく折り畳まれていた庭は、水中花のようにみるみる拡がって、謎や不可解に充ちた広大な庭になった。そこには植物や鳥の気ままだが静かな営みがあり、かづの知らないことがいっぱいあって、今日かづがその一つを庭から持ち帰り、少しずつ自分のものにして、小さな薬研で挽き砕き、……掌に指に、薬をまさぐるようにまさぐって試してみても、新鮮な未知の原料はいっかな尽きず、かづを無限に富ましてくれるだろうと思われた。(『宴のあと』新潮文庫 p.255)

 この簡潔で明快な小説が、作者の技巧的熟練を随所に感じさせる傑作であることを、最後に附言しておく。

宴のあと (新潮文庫)

宴のあと (新潮文庫)