サラダ坊主日記

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ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 5

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

④「美」の超越的な範型、或いは審美的ニヒリズム

 この世界の事象に如何なる意義も価値も認めないことが、ニヒリズムと呼ばれる精神的情況の特質であるとするならば、新進気鋭の芸術家として登場する山形夏雄の感受性は、図らずもニヒリズムとの間に親密な盟約を締結しているように見える。作者はそれを芸術という営為の一般的な特質として語っている。無意味な世界、即ち「虚無」を専門的に取り扱う腕利きの技術者、それが芸術家の本領なのである。

 感受性に富んだ人間の生き辛さを、夏雄が露ほども持たないことは驚異だった。彼は自分の感受性と外界との、他人との、社会との衝突を嘗て知らなかった。その感受性は、手ぎわのいい掏摸のように、外界からただ彼の気に入ったタブロオを、誰にも気づかれずに切り抜いて来た。自分の豊富に苦しめられたことは一度もなく、一種の清澄な欠乏をたえず感じていた。

 その大人しい、やさしい心やりに充ちた、人に愛される性質は、一体こんな性質が先にあって彼の感受性を富ましたのか、それとも生れつきの鋭敏で無私の感受性が、傷つきやすいわが身を衛るために、そういう性質をこしらえたのか、彼自身だって答えるのが難かしかったろう。強いて均衡を求めもしないのにおのずから均衡を保ち、彼が外界の自然に対して何の意味も求めようとしないので、自然も安心してその美しさを委ねて来た。美術大学を出て以来二年間特選をつづけているのに、この温和で軽率な若い日本画家は、自分の才能のあるなしをさえ、ついぞ思い煩ったことがなかった。(『鏡子の家新潮文庫 pp.23-24)

 作者の考える理想的な恩寵に恵まれた芸術家の風貌には、世界に対する徹底的な受動性が刻み込まれている。彼の主体性の欠如、薄弱な闘争心、本能的な均衡は、彼が世界に対して如何なる意味も求めず、黙ってそれを受容していることに基づいている。尤も、この受動性の特筆すべき均衡は、必ずしも手放しで称讃されるべきものではない。

 彼は確かに世界に対して如何なる意味も求めていない。豊饒な感受性が切り取る美しい「タブロオ」を見凝めて嘆賞するだけで、彼の精神は稀有の均衡を保持し続ける。だが、それは審美的な感受性の効能によって、彼の精神が堪え難い虚無に直面することを免かれているというだけの話ではないのか。「美」という超越的な基準に一切合財の判定を委任することによって、個別的な虚無の蠱毒を退治するという特異な健康法の成果に過ぎないのではないか? 彼は自らの才能の有無を思い煩う必要に迫られることさえなく、只管に感受性の収穫する甘美な果実に惑溺している。「自分の感受性と外界との、他人との、社会との衝突」を経験せずに済んでいるのは、彼が「美」以外の如何なる基準にも関心を示さない審美的なニヒリズムの虜囚であることの結果だが、煎じ詰めればそれは不徹底なニヒリズムであり、密かに感性的な美という「価値」を忍ばせた欺瞞的なニヒリズムなのである。

 彼の目はただ見てしまう。いつも好餌を探しており、彼の目の好きなものを一瞬ものがさずに見てしまう。それは必ず美しかった。しかし時あってさすがの彼にも、一抹の不安の湧きのぼることがあった。

『僕は果して自分の目の愛するものを、悉く愛していいのだろうか?』(『鏡子の家新潮文庫 p.25)

 世界に対して如何なる意味も求めない夏雄の感受性は明らかに、一つの至高の価値に対する飽くなき欲望を燃え盛らせている。その欲望の対象が、具体的な意味、社会化された意味と直接に関連するものではないとしても、つまり彼の感受性の欲する対象が一般的な意味や価値と直結するものではないとしても、それが一個の主観的な「価値」であることは否み難い事実である。彼は審美的で感性的な価値を絶対化することで、或いはそうした絶対化を強いられることによって、それ以外の一切の社会的な価値を黙殺している。その「黙殺」の側面だけを挙証すれば、確かに彼は一人の明確なニヒリストだが、そこには「審美的」という但し書きが常時欠かせない。彼は「美」という至高の理念に総てを明け渡すことによって、日常的な現実に対するニヒリスティックな超越性を確保しているのである。

 しかし風景というものには、丁度絵巻を繰ってゆくように、発端もあれば終末もあった。風景にむかうときの心の用意を、眠るまえの心の準備にたとえれば、頭が冴えて、心象がいたずらに躍動して、眠りに逆らうように見えながら、ある瞬間から、突然眠りへの陥没がはじまるように、風景の中へ陥没する状態は、思いがけない瞬間に突如として齎される。なるほど画家は風景を目を以て見、もっともよく見るときにはもっとも明晰に見ている。しかしこのような明晰さの極限は、突然襲いかかる眠りと、ほとんど同種のものなのであった。(『鏡子の家新潮文庫 p.116)

 こうした「明晰さの極限」においては、画家の眼は如何なる社会的な意味によっても汚染されず、また遮蔽されてもいない。そのとき画家の眼は確かに一つの虚無的な境地へ到達している。けれども、その明晰さは、芸術的な感動と一体化した現象であり、感性的な「美」に対する欲望の働きと不可分なのである。従って、画家の明晰さを純然たるニヒリズムと同列に論じるのは精確ではない。画家の明晰さは、諸々の世俗的な意味や価値や観念を排除することによって初めて成り立つ認識の形態であるが、それは予め審美的で感性的な規範に制約されているのである。その枠組みの内部に限って、芸術家のニヒリスティックな精神は稼働し得るのだ。

 このとき夏雄は独特の、深い感覚のとりこになった。突然風景の中核へ、自分が陥没したのが感じられたのである。それは冷静さの極致にいて、同時に、目もくらむほどの幸福感に見舞われる特殊な状態で、しかも彼の目はこの上もなく明晰に風景を見ていた。(『鏡子の家新潮文庫 p.118)

 こうした「風景の中核」に対する精神的な「陥没」の現象は、夏雄があらゆる心理的な意味の体系から逸脱して、純然たる「感受性」の領域に自己の一切を投入した状態を指し示している。彼は錯雑した心理的複合体の抑圧を免かれ、如何なる意味にも帰結しない感性的な対象だけを見据えている。「明晰である」ということは、換言すれば「感受性に埋没している」ということだ。それは深井峻吉がボクシングという純然たる「行為」に挺身することで、不毛な「思考」の慣習を棄却するのと同種の営みである。だが、夏雄の意識が如何に世俗的な価値観、社会的な規矩から自在に解き放たれているように見えたとしても、彼の虚無が或る個人的且つ審美的な基準を密かに内包している事実は動かし難い。

 見て、感じて、描くこと。この活きて動いている世界を、色と形だけの、静止した純粋な物象に変えてしまうこと。それは何か怖ろしいことだったが、夏雄はその怖ろしさを感ぜず、最初恐怖を抱いた両親も、いつしか世間的な評価を担った才能という言葉に安心した。それはしかし依然として怖ろしいことだった。彼は物を見、事実彼には何かが見えるのだった!(『鏡子の家新潮文庫 p.139)

 こうした芸術家の境涯に、道徳的な規範や経済的な法則が介入する余地はない。画家の眼は、一切の事象を「静止した純粋な物象」として捉える。そうした世界で道徳的な善悪や経済的な効果を論じても無益であることは言うまでもない。その意味では、確かに芸術家は「虚無」の取り扱いに長じた専門家であると言えるだろう。けれども、そこには猶、一抹の「意味=価値」が消え残っている。芸術家のニヒリズムは、飽く迄も審美的な感受性という至高の理念を信仰することによって与えられる、限定的な虚無なのである。美しいものだけを眺め、美しくないものを視野から除外する画家の「冷静」と「明晰」は、真実に対する直截で冷徹な認識であるというよりも、偏狭な主観性の大胆な発揮なのだ。

 これは飛切上等の預言であったが、同時に不吉な預言でもあった。硝子とか露とか天使とか宝石とか、そういうものが人間的な比喩と云えようか? 子供のころ、父が彼を兄弟と一緒に海へつれて行った。波は澎湃と高まって砕け、おそろしい響きを立てた。兄たちは喜々として海へ入った。夏雄はおびえて、それ以来、海へ入ろうとしなかった。自分の人生には決して事件が起らないと彼が予感しはじめたのは、多分このときからである。(『鏡子の家新潮文庫 p.140)

 「意味」は人間的な世界を形作る重要な礎石であり、頑強な紐帯である。それを解けば社会の秩序は忽ち瓦解してしまうだろう。そういう人間的な価値の体系から距離を保ち、総てを「純粋な物象」へ還元しようとする夏雄の芸術的な性質は、虚無的な態度であるというよりも、審美的で主観的な態度であると看做すべきだ。芸術家のニヒリズムは、社会的な行動に対する禁欲的な方針の維持を前提としている。もっと咬み砕いて言えば、諸々の具体的な「行為」から一線を劃して退いておくことが、総てを「純粋な物象」として眺める為の条件なのである。

 夏雄がたった一刹那の落日の風景をその目でとらえたとき、彼は時と共に滅びるべきものを、紙上にとらえて確保したのであったが、こんな分解作用を経て、個々の細部は、ますます時間の要素を洗い去られた。そうするためにも画家は時間の力を真似るのであって、あらゆるものが不変の資料に還元されるあの永い時間の労力を、彼はおそるべき神速に変え、またたくひまにすべてを腐敗に追いやって、色彩と形態の原素、このまったく空間的な原素へと、解体し還元してしまうのだった。

 こうしてあのふしぎな落日の風景は、意味を帯びた言葉からは完全に遮断され、音楽からも、幻想からも、象徴からも遮断されて、純粋に空間的な要素の集合になった。そのとき彼ははじめて、一枚の絵画の生れる出発点にいたのである。(『鏡子の家新潮文庫 p.142)

 外界の風景を芸術的な作品に変換していく過程の詳細な描写は、審美的なニヒリズムの備えている特殊な毒素の作用を克明に物語っている。芸術家という存在の反社会的な性質に就いて、作者は明瞭な認識と自覚を保持している。「世間的な評価」を根拠として、その特異な性質に社会的な規矩との和解を認めることは、表層的な錯覚に過ぎない。芸術家は一切の道徳的な関心、つまり社会や共同体が個人に対して要求する諸々の規範への屈従を本質的に軽侮している。彼らの審美的なニヒリズムは、一般の社会が信仰している道徳的な世界観とは異質な、専ら感性的な「異郷」の世界観を信じて、それのみに従属するのである。

 若しも芸術家の実存的な危機というものが有り得るとしたら、それは審美的ニヒリズムの虚無的な超越性が破られるときに顕れるだろう。感性的な「美」の理念に対する純一無雑の隷属が覆され、審美的なニヒリズムの垣根を食い破って、世俗的な「意味」の厖大な塊が精神の領野へ雪崩れ込むとき、芸術家の不敵な虚無は亀裂に苛まれ、感性に対する無限の信奉は禁じられ、創造される作品は汚水に塗れるように通俗的な規矩やイデオロギーに穢されるだろう。

 大人しい、やさしい心やりに充ちた一人の青年は消えてしまう。彼は今芸術家であり、制作のために虚無を招来した。そしてこんなおそろしい作業を自分一人の画室で仕了せた夏雄には、たちまち、躍動した、いたずら心に充ちた子供の魂が顔を出すのである。

 まことに喜戯的なこの魂! 無意味を容認し、無意味をつゆほども怖れない魂の前に、制作のさまざまな無限の自由がはじまり、感覚と精神の放蕩がはじまる。彼は形象と色彩をこねまわし、あちこちへ動かし、逆さにし、横にし、……自分自身にも定かには知られていない一つの秩序にむかって、永いこと無秩序を玩具にしているのである。

 こんな作業には、まさしく苦渋のうちに歓喜がにじみ、理性のうちに陶酔がまじって、綿密な技術的配慮が放恣な感覚的耽溺と一緒になっていた。(『鏡子の家新潮文庫 p.143)

 芸術家のアモラルな自由、善悪の彼岸に置かれた遊戯的な自由は、審美的なニヒリズムとして、社会の一隅に危険な異次元の領野を開拓している。無意味な世界を、感受性の要求に従って取捨選択し、遊戯的で無秩序な境界線を縦横無尽に走らせること、そうした自己目的化した運動に果てしなく没入し耽溺すること、それが芸術家という実存的様式の基本的な原風景である。

 夏雄はその幼年期の絶対の幸福感のなかで、生涯に彼の見るべきあらゆる美しいもの、美しい風景や鳥や花や人間の顔などの、いわば型録に目をとおしてしまったような気がする。爾余の人生のいかほど新鮮な発見も、こんな型録から想像された美しさには及ぶべくもない気がする。幼ない彼が見た風景は、決して消え去ることのない落日のうちに燦然として、湖はかがやき、湖畔の森は瞑想に沈み山々は紫紺に映え、たとしえもなく広大で、しかも路傍の草花や礫までが微細に見え、……どこにも人影がないのである。

『どうして人間がいないのだろう』と幼ない彼も不審に思った時があったにちがいない。『人間が一人もいないのに、どうしてこの世界はこんなにも完全なんだろう』

 人間的関心の少しも芽生えぬうちから、美的関心がこの子供を蝕んでいた。それは言葉や習慣を学ぶよりさきに、彼の心をしっかりとらえ、彼の見る世界を、しんとした色彩だけの無人の場所に変えてしまっていた。(『鏡子の家新潮文庫 p.257)

 こうした回想と感慨が「金閣寺」における溝口の抱えていた問題と同じ構成を有していることは明瞭である。あらゆる感性的な美しさに先立って、或る絶対的な「美」の範型が存在しているというプラトニックな信憑、そして決して人間の参入を許さない「美」の峻厳な原理、こうした主題は総て「金閣寺」の中で徹底的な追究を享けている。換言すれば、こうした「美」の超越的な範型による内面の支配が、芸術家の「虚無」を支える根源的な条件なのである。人間が感性的な領域に溺れる為には、予め「美」の超越的な範型が存在しなければならない。その起源が遥かな幼年時代に存在するという推測は、格別の根拠を有する想像ではない。重要なことは、その範型が個別の感性的な美しさを超越しているという一点に尽きている。

 そういう考えは煽てや己惚れの結果としてではなく、物心ついたときから彼に備わっていたのだ。何ものも彼の純潔を毀つことができないというこの考え。もし世間で言うように、醜悪な現実というものがあるなら、それははじめから無力な筈だった。何故なら彼の目がむりにも醜さを発見しようとするところでは、それは必ず非現実的なものになったから。(『鏡子の家新潮文庫 p.263)

 夏雄の「純潔」が「人間的関心」に対する「美的関心」の優越に根拠を置いていることは明らかである。だが、人間として生を享けながら、死の間際に至るまで完全に「天使」の如く日々を過ごすことが本当に可能だろうか? 如何なる「醜悪な現実」も「非現実的なもの」として排斥するような感性的形式が、永劫に持続するということが有り得ようか? 夏雄の実存的危機は、彼が「美」の絶対的な範型の齎す感性的な支配から脱して、否が応でも「醜悪な現実」を捉えなければならなくなった瞬間に到来するだろう。

 夏雄はこんな議論に子供らしい危険を感じた。第一、芸術作品とは、目に見える美とはちがって、目に見える美をおもてに示しながら、実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成立つとすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。何故なら芸術作品も炎上や破壊の運命を蒙ることがあるからであり、美しい筋肉美の青年が、芸術家の仲介なしに彼自身を芸術作品とすることができたとしても、その肉体における超時間性の保障のためには、どうしても彼の中に芸術家があらわれて、自己破壊を企てなくてはならないだろう。筋肉の錬磨と育成は、肉体を発展させることでもあるが、同時に時間的法則の裡に、衰退の法則の裡に、肉体を頑固に閉じこめておくことであるから、それは芸術行為ではないのであって、自殺に終らぬ限り、その美しい肉体も、芸術作品としての条件を欠いている筈である。(『鏡子の家新潮文庫 pp.277-278)

 「美的関心」に支配された世界では、一切は「超時間性」或いは「無時間性」の虜囚と化し、必然的に「純粋な物象」へと姿を変える。「時間的法則」を免かれるがゆえに、そこでは総ての人間的な「行為」が禁じられる。夏雄の審美的な世界に「人間」の姿が根本的に欠如しているのは、こうした経緯に由来する事象なのである。「時間的法則」を免かれ得るという幻想的な理念の下で初めて、芸術家は無限に審美的な遊戯の渦中へ耽溺することが出来る。夏雄のニヒリズムは、つまり「虚無」との無際限な戯れは、人間的な秩序を成立させる根源的な条件である「時間的法則」を解除することによって、暫定的に獲得される甘美な悦楽なのである。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)