サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

愛慾と殺意の共同体 三島由紀夫「獣の戯れ」

 三島由紀夫の『獣の戯れ』(新潮文庫)を読み終えた。

 この小説には「愛の渇き」や「美徳のよろめき」に通じる背徳的な愛慾の気配が色濃く漂っている。特に深刻な浮気性の夫に独占欲を懐きながら容易に満たされずにいる孤独な草門優子の姿は「愛の渇き」の悦子を彷彿とさせる。悦子は瀕死の重病を患って苦しむ夫の姿に、屍臭の漂う異様な充足と幸福を見出した。優子もまた、脳に致命的な障碍を負って別人のように大人しくなった失語症の夫との生活に、或る奇妙な「諧和」の感情を懐いているように見える。それは、傷ついた伴侶への献身的な愛情と定義するには、余りに不穏な空気を纏い過ぎている。

 しかし現に優子の指が揉みほぐしている肉体は、不感のおだやかな温かい死に包まれたままだった。それは確実だった。隔たって、ここから見ていても確実だった。足の指の股まで優子は白い粉をまぶし、さっき念入りに洗ったばかりのそこを、今度は粉がきしむほどに揉み柔らげた。ときどき湯気のなかに優子の美しい横顔がはっきり見えた。それは火照り、一心なうちにもゆるんだ放恣な喜びがあらわれて、こんな屈従とも優越ともとれる単純な作業に、優子の魂がゆったりと安らっているさまが窺われた。幸二は彼女の魂のみだらな寝姿を見るような心地がした。(三島由紀夫『獣の戯れ』新潮文庫 P78-P79)

 これは相手の幸福を希求する純然たる献身的愛情の姿だろうか? 明らかにここには、暴力的な事件によって心身に不具を負った逸平に対する「所有」の愉楽が煮え滾っている。自由を奪われた男に対する献身的な奉仕の根底に、支配と優越の歓びが息衝いている。だが、それは草門優子という人間に固有の異様な疾病であろうか? そもそも「愛慾」という人間の度し難い生得的衝動そのものに、相手の自由を禁圧することへの欲求が浸潤しているのではないか?

 「愛情」と「愛慾」との間に区分を見出すことは、理窟の上では容易であっても、実際の生活の渦中においては少しも容易ではない。両者を決然と隔てる絶対的で明快な指標が常に存在している訳ではない。けれども、両者の区分を論理的に考察することは、人間という奇態な生き物の構造を解明する上では有用な手続きである。愛情は、他人の自立と成長を願う欲望であり、相手の自由と主体性を最大限に尊重する試みである。その意味では、愛情は執着から最も遠く、澄み渡った水のように放任的で流動的で、対象の固有性に頓着しない。論理的に考えて、愛情は否が応でも博愛的な性質を備えずにはいられないのだ。それは選り好みや依怙贔屓といった極めて人間らしい通俗的な感情とは相容れない方向性を備えている。成熟した愛情、理想的な段階へ達した後の愛情は、万人に対する公平な情念としての姿を必然的に保持する。

 一方の「愛慾」はどうか? それは外見だけを捉えれば「愛情」と混同され易い要素を含んでいるが、その根本的な原理の部分においては両者の径庭は明確である。愛情が世界に向かって幅広く開放的に拡張していくのに対して、愛慾は常に対象の固有性に対する運命的な信憑(運命的であると信じようとする誇大な観念)として顕れ、純然たる「依怙贔屓」として当事者の精神を制約してしまう。傍から見れば大して魅力的にも思われないような人物であっても、愛慾の当事者にとっては、その人物は余人を以て代え難い絶対的な性質を厳然と保持しているものである。或いは、それは性質であるというよりも「位置」や「関係」の問題であるようにも感じられる。例えば逸平に対する優子の絶対的な執着は果たして逸平という人物の具体的な特性に向けられたものであろうか? 具体的な性質に対する執着であるならば、それは交換が可能であり、逸平という存在そのものに対する固着ではなくなる。愛慾は、或る固有名に対する異様な執着として育まれるものではないか?

 このように書くと、容易に反駁が予想される。逸平のような浮気性の男を眺めれば明らかなように、或いは世間の一般的で素朴な事実を鑑みるだけでも明瞭であるように、愛慾は複数の対象の間を忙しなく往復し得る情熱であり、固有名に対する真剣な固着は愛慾の根源的な特性ではない、と。だが、それは特定の異性ではなく「異性」という一般的な観念に向けられた衝動であるという意味で、寧ろ博愛的な性質を孕んでおり、私が現に想定している愛慾の定義とは聊か異なっている。愛慾は、単なる性的な欲求とは一致しない。客観的な性質に対する執着とも重ならない。

 愛情が各自の主体性を最大限に尊重する理智的な情緒であるとすれば、愛慾は相互の主体性を消し去って融合しようと試みる異様で肉体的な情熱である。両者の目指している方向は根本的に背反している。愛慾は自らの深層の裡に、愛する相手への野蛮な「殺意」を秘めているものなのである。

 三島由紀夫の描き出す愛慾の世界が、常に夥しい屍臭で飾られているのは論理的な必然である。愛慾は自他の境界線を踏み躙って一体的な融合を遂げようとする血腥い衝動であり、それは万人に向けて等しく注がれる無私の愛情などという崇高な御題目の対極に位置している。愛情は相手の健全な成長や快活な幸福を希求する祈りのようなものだが、愛慾には、そうした寛容な放任の立ち入る余地は与えられていない。総てを生々しく呑み込み、噎せ返るような息苦しさの中で相手の存在の中核を破壊するのが、愛慾の抱えている原始的な衝迫の本性である。愛慾は限りなく殺意に似ている。相手の自由を制限し、何もかもを共依存の渦中へ投げ入れ、自立や成長よりも融合と停滞を望む。愛慾が唯一美しい姿を人目に晒すのは、離別の瞬間に限られている。

獣の戯れ (新潮文庫)

獣の戯れ (新潮文庫)