サラダ坊主日記

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ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 6

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

⑤「醜悪な現実」とオカルティズム

 感性的な「美」の範型に従属し、芸術家として「時間的法則」を免かれた世界で無秩序と遊戯の日々に暮らしてきた夏雄の平穏な境涯は、徐々に「人間的関心」に蝕まれ、従来の精妙な均衡を失い始める。

 夏雄は自分が風景のなかへ陥没してゆくのとちがって、風景からいつまでも拒まれているのを感じる。こういう心境から絵は決して生れない。身も溺れるような感覚の歓びの代りに、五体が動かない時間に縛りつけられて、精神も感官も凍りついてしまったのが感じられる。漸くこれが、人を待っていることだと思い当った。

 他人の存在に左右されているこんな時間には、色彩もなければ構図もなかった。世界はグロテスクな海月のような姿で浮動していた。それが夏雄に、箱根の早春の何とも云えない無秩序な色彩を思い出させた。

 美しい外界が彼に与えていた祝祭的な幻は消え去った。何一つ彼を傷つけず、彼が呼ぶところへたちどころに無垢な姿を現わす、あの晴朗な外界は潰えてしまった。その代りに、世界は今、彼の歯にはさまった異物のようだった。(『鏡子の家新潮文庫 p.285)

 これこそ正しく「醜悪な現実」というものの控えめな提示ではなかろうか? 美しいものだけを選択的に捉え、一切の社会的な観念を取り除いて、感性的な対象を「純粋な物象」に還元してしまう芸術家の審美的ニヒリズムにとって、こうした「絵にならない」現実の顕現は直ちに致命的な危機を齎す。夏雄の精神と外界の現実との間に長らく保たれてきた虚無的な宥和の関係性は徐々に綻んでいく。それは持ち前のニヒリズムの不可能性が樹立されるという意味ではない。審美的ニヒリズムの不徹底な性質が露わに開示されるということである。つまり、夏雄の抱懐する芸術的ニヒリズムが、暗黙裡に「美」という絶対的な理念の臨在を前提とする限定的な「虚無」に支えられたものであることが、遂に外界の現実によって告発され始めたのである。

 その晩一人の寝床で、夏雄は今まで考えもしなかった「芸術家の苦悩」という主題をぼんやりと考えていた。この言葉には、職業上の秘密の仮装と云った感じがあって、陰惨な喜悦というのも、明朗な苦悩というのも同じことだったろう。対象が一旦虚無に還元され、色彩と形態に屈服するというあの不思議。今まで彼はそこに喜悦をしか見なかったが、この喜悦は世の常のものではなく、もしふつうの人がこれを味わったら、確実に苦悩だと感じただろう。(『鏡子の家新潮文庫 pp.363-364)

 換言すれば、夏雄はこれまで「虚無」の孕んでいる深刻な有毒性に対して無自覚の状態を保持し得るという僥倖に恵まれていたのである。通例、人間の精神に対して畏怖すべき懊悩と損害を与える「虚無」は、芸術家にとっては純然たる感性的な領野を切り拓く為の素晴らしい条件に過ぎない。芸術家という実存的様態の特異性は、こうした「虚無」に対する稀有の「免疫」に存している。総てが「虚無に還元され、色彩と形態に屈服するという」事態は、一般的には「意味の喪失」であり、人間の生活から希望や目的を剥奪する剣呑な衝撃であり、人間の精神から積極的な実存に赴く為の情熱と活力を削ぎ落とす強力な毒素である。しかし芸術家の場合には、寧ろ「意味の喪失」という事態は、感性的な「美」の渦中へ耽溺する為の好適な条件なのである。世俗的な観念の列なりを一挙に引き千切って放逐してしまうことで、芸術家は存分に感性的な「美」の魅力に埋没することが出来るようになる。

 夏雄によれば、天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造型する人であった。こういう手がかりが正にあの喜悦であって、美にとっては、世界喪失は苦悩ではなくて生誕の讃歌のようなものなのだ。そこでは美がやさしい手で既定の存在を押しのけて、その空席に腰を下ろすことに、何のためらいもありはしないのだ。いいかえれば天才の感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえようと、決して悲劇に到達しない特質を荷っているのである。(『鏡子の家新潮文庫 p.364)

 「世界喪失」とは「虚無」に囚われることの異称であろう。そして「美」という理念を自らの感性の裡に行き渡らせる為には、世界の喪失という悲惨な痛苦は寧ろ望ましい事態なのである。普通の人間にとって「苦悩」に他ならないものが、芸術家にとっては「多様な快楽」(p.364)の尽きせぬ源泉として措定される。「虚無」が「美」の顕現を可能にする重要で決定的な条件であるという真理は、こうした消息によって証されている。だが、厖大な「虚無」から営々と「美」を汲み出す作業の非人間的な性質に、生身の人間が無尽蔵の忍耐力を堅持し続けることが果たして可能だろうか? 若しも感受性の涸渇が芸術家の許へ襲来したら、そのとき「虚無」は本来の毒性を存分に発揮して、芸術家の実存を果てしない「苦悩」の深淵へ突き落としてしまうのではないか?

 物象があり、自然全体があり、自然の各部の精密な聯関があり、こちらにはまだ描かれない白い画布と、その純粋な空間があり、虚無への誘いがあり、……そういう画家独特の世界の構造は、夏雄の心から消えてしまった。こんなに色彩が、線が、形象が無意味に眺められたことはなかった。しかもその無意味を彼は怖れた。(『鏡子の家新潮文庫 p.370)

 芸術家一般の虚無に対する独特の耐性は、芸術家が徹底的に「認識」と「感性」の境位に留まり続けることによって初めて保証される。或いは、芸術家が感性的な「美」の崇高な価値を確信し続ける限りにおいて、虚無は芸術家にとって安全な認識と創造の対象となる。そうした関係性の危うい均衡が崩れてしまえば、虚無は本来の強烈な毒性を露わに発揮し始めるだろう。芸術家の有する審美的なニヒリズムが、本来の深刻なニヒリズムとは全く異質な安全圏の遊戯に過ぎないことが曝露されるだろう。真実の虚無は、美的価値などという感受性の曖昧模糊たる産物を一顧だにしない。均斉や端正は単なる束の間の現象的な断面に過ぎず、特権的な価値を賦与されることは有り得ない。そもそもニヒリズムとは一切の「価値」の根源的な否定を告げる思想なのであり、従って芸術家の信奉する「美」の超越的な理念だけが、虚無の残酷な断罪を免かれ得る理由は毫も存在していないのである。

 すべての存在にはもう保証がなくなっていた。富士はありありと見えてはいたが、その存在の根拠というべきものはなくなった。何ものかが化現して、仮りに富士の姿を現わしているにすぎなかった。

 夏雄はホテルへの道を全速力で走らせた。往きと帰りとでは、何一つ変りがないのに、すべては完全に変っていた。道のはたにのけぞるような形で立っている松は、次第に烈しくなる正午ちかい暑さの光りに巻かれて、松の魂のあらわな形を示しているかのようであった。

 この高原の乾いた橙いろの暑熱のなかで、もう美は完全に死んでいた。(『鏡子の家新潮文庫 p.372)

 芸術家の信奉する美的な価値、その超越的な理念が崩壊したとき、芸術家の世俗的な価値観に対する自在な越権は、自らの根拠を喪失する。超越的な「美」に支配された感受性の平穏な秩序、画室の静謐な秩序は瓦解する。俗人が道徳や貨幣や情慾を信じるのと同じように、画家は専ら感性的な「美」の秩序を信奉していたに過ぎない。どれだけ芸術家が市民的な、通俗的で社会的な価値観から解き放たれた自由な存在であるかのように見えたとしても、それは相対的な差異に基づく錯覚でしかないのだ。芸術家と雖も、虚無の有する深刻で破壊的な性質の効果を完全に閑却することなど不可能である。

 清一郎の言ったことは本当だった。世界の崩壊ははじまっていた。自分はたしかに今それを見たのだ。

 しかし夏雄はそれを、小鳥や花や美しい夕雲や船などをかつて見たように見たのではなかった。いわば、それを以ては他のものは何一つ見えない別の目を以て見たのだ。彼は自分にそういう目の、いつのまにか備わっていたのにおどろいた。幼時から、美しいものばかりを選んで見ようとした目は、実はこの別の目に支えられて、操られてそうなっていたのかもしれない。そして消滅した樹海のあとに口をあけていた空っぽな世界こそ、この別の目を以て、彼が幼時から一等親しんできたものかもしれない。

 夏雄は突然、画のことを考えた。秋の展覧会のこと。そのための画材を探しにここへ来たこと。かくて描こうとしていた画のこと。……それらはおそろしく無意味なものに思われた。画布の上の小世界の構築は、囚人の作る燐寸細工の城みたいなものにすぎなかった。美が彼の感受性のえがいてみせる幻影にすぎなかったとすれば、彼の感受性は越権を犯していたわけだ。なぜならいつも、美は、感受性の命ずるまま強いるままに彼の目の前にあらわれ、かくて感受性は本来のつつましい受動的な作用を忘れたのであるから。(『鏡子の家新潮文庫 pp.372-373)

 換言すれば、芸術もまた「虚無」の度し難い毒性に抵抗する為に編み出された切実な「祈り」の一種であり、人間的な価値の集積に他ならないのである。価値の崩壊、或いは価値そのものの根源的な幻想性、それらの堪え難い痛苦と恐怖に満ちた冷厳なる認識から人間の精神を救済する為に、芸術は「美」という感性的な享楽を特権化したのだ。それは少しも安全な逸楽の営為ではなく、際疾い綱渡りの連続であり、一歩間違えれば絶妙な均衡は一挙に崩落して、夥しい暗黒の虚無が堤防を破壊し、あらゆる人間的な価値を津波のように押し流して瓦礫に変えてしまう。「美」に対する鋭敏な感受性は、暗黒の虚無から人間の実存を防衛する脆弱な城塞である。

 彼は岐路に立っていた。あの樹海の消滅を見たときから、自分の目が盲目になったと信じるか、それとも世界が崩壊しはじめたと信じるか、どちらかを選ぶように迫られていた。……実のところ、彼は何のためらいもなく後者を選んでいた。そのほうがいくらかでも心を慰めたからだ。彼は信じていた。樹海が消滅したときから、もう全世界の崩壊は近づいたこと。意志は無意味になり、知的探究も感覚の戯れと何ら選ぶところがなくなり、行為は無為と同等になり、崇高さも汚濁と手を握り、あらゆる人間的価値は瓦と等しくなり、美は死に絶え、……そしてその在りし日の美も、もろもろの人間的なものと同じように無意味な思い出話にしかすぎなくなったことを。……今や美は、子供のころの涙の中に浮んだつかのまの虹のようなものにすぎなくなった。子供の泣顔というものは、彼の記憶の限りでは、醜く、みっともなく、卑俗で、少しも天使なんかと似ていなかった。(『鏡子の家新潮文庫 pp.373-374)

 どれだけ感性的な「美」の理念が、人間の後生大事に守り抜いている諸々の通俗的な価値観や道徳や規範や約束事を超越しているように見えたとしても、それが世俗の秩序と異質でありながらも、同根の場所から派生している人間的な価値観の聊か特殊な事例に過ぎないことは、こうして歴然と白日の下に晒された。「美」を特権化する芸術家の実存的な作法は、煎じ詰めれば自己陶酔の論理に支えられた暫定的な真理に過ぎず、それは通俗的市民社会に対する相対的な優位性を条件付きで容認されているだけの代物である。ニヒリズムに対する芸術の抵抗力は、極めて剣呑な曲芸の水準を超越するものではないのだ。そして暗黒の虚無に持ち前の鋭敏な感受性を蹂躙された後の夏雄にとって、最早「芸術」と「審美主義」は如何なる救済の権能も持ち得ないのである。

 それは決して色彩ではなかった。かつて美は色彩としてしか彼の目に映らなかったから、彼の世界は意味を欠いており、このことの自然な結果として、どんな無意味も夏雄の感受性に富んだ心を脅やかさなかった。しかし今見える赤や緑や青や白は、色彩ではない。かつて見ていたような色彩ではない。それは解明はされないながら明らかに一つ一つの意味を帯びていて、現われた絵は、妙にけばけばしい象徴的構図を持った寓意画になったのだった。(『鏡子の家新潮文庫 p.421)

 総てを「色彩」として捉える往時の夏雄の審美的な感受性は、世俗の価値観の信じる「意味」の体系を閑却して毫も懼れないだけの独自な「根拠」に満たされていた。けれども、芸術的な審美主義への信仰が不可解な理由によって打ち砕かれてしまった今となっては、彼は別様の方法と手段を通じてニヒリズムからの恢復を図らねばならない。それは世俗的な価値観への遅れ馳せながらの性急な避難によっては成し遂げられないだろう。彼はその無意味を、芸術的な審美主義に殉ずる日々の中で頗る明瞭に知悉していたからである。

 それでも彼は瓦礫のような世界の驚嘆すべき無意味さに堪えることが出来ない。芸術という防護の手立てを奪われた彼の敏感な精神は、無意味な世界の冷厳たる感触に慣れ親しむことが出来ない。彼がかつて世界に対して有していた寛容な適応力は、芸術の庇護を脱した途端に、自らの成立と稼働の根拠を失ってしまった。彼は懸命に「意味」或いは「色彩」の恢復を希求する。かつて審美的な世界においては、色彩こそ「意味」であり「価値」であったのだ。色彩を信じることは価値を信じることとは同義であり、従って感性的な世界への絶えざる惑溺と没頭は、その外貌とは裏腹に「虚無」の対極に位置する営為だったのである。そうした「色彩」への信仰が不可能なものとして禁圧された場所に立って、夏雄は「象徴的構図を持った寓意画」と化した世界の解読を試みる。無論、これこそが「オカルティズム」(occultism)の萌芽であることは疑いを容れない。隠然と秘匿された不可解な「意味」への解読の衝動を経由して、虚無に覆われた瓦礫のような世界に、従来とは異質な意味の体系を探り当てようと試みるオカルティズムの欲望が、芸術の恩寵を喪失した不幸な夏雄の実存を捕縛したのである。

 激怒と前世の森と誓いと図書館の石の階段とは、ばらばらで少しも結びつかず、無意味に馴れた画家の心は、外界が忽ち意味を回復するかと思うと、こんな象徴詩みたいなものに紛れ込んでしまうのを訝かった。彼にはもともと文学的な心性が欠けていた。そこでこれらは記憶に関わりのあるものかと思われたが、幼時からの彼の記憶は、無人の世界の意味を持たない色彩の氾濫でしかなかった。

 それでも制作のときに彼のまわりに湛えられるあの広大な虚無はなくなって、世界にみるみる意味が立ちこめ、意味ですべてが充溢して来るように思われた。しかし奇怪なことに、無意味な世界の全体のあんなに単純で簡素だった秩序は消え失せて、一度意味を生じた世界は手のつけようのない混乱に陥った。

『僕はもしかしたら現実を見はじめたのかもしれないぞ』と、目の前に執拗にうかぶ象徴的構図を追いながら、夏雄は考えた。たとえそれが現実だとしても、それは新聞配達も来なければ電車も動かず議会も決してひらかれないしんとした現実だった。ただ群がる奇怪な意味だけが、夏の夕方の夥しい羽虫のように空中に立ちこめていた。(『鏡子の家新潮文庫 p.422)

 オカルティズムは「秘められた意味」への到達と解明を志す営為である。それは芸術的な感受性の幻影を失って、黒々とした「虚無」の実相へ抛り出された夏雄にとっては、一つの重要な「意味の恢復」の為の手蔓であると言える。しかし、オカルティズムの提示する「象徴的構図」は「新聞配達も来なければ電車も動かず議会も決してひらかれないしんとした現実」であり、世俗の一般的な通念や社会的秩序とは少しも重なり合うことがない。

『僕は河口湖への旅に出たときまで、世界の無意味を少しも怖れなかった。無意味は自明の前提だったのだ。しかし、それ以来、急にそれが僕には怖ろしくなり、僕の恐怖の根源になったのだ。どんな奇怪な意味でも、僕は世界が、礫で充たされた蛇籠のように、意味で充たされることを望んだ。……そうして僕はあの人に会ったのだ。(『鏡子の家新潮文庫 p.423)

 ニヒリズムの襲来と「無意味」な世界への陥没、そこからの脱却を成し遂げる為に、半ば性急な手法で世界を「意味」で埋め尽くそうと試みる衝動、それが人間の精神をオカルティズムの深淵へ向かって誘惑する。相互に無関係な事象の断片を星座のように繋ぎ合わせて、荒唐無稽の壮大な幻想へ結実させる独特の飛躍した神秘的論理、それはまさにニヒリズムの対極に位置する営為であると言えよう。そしてオカルティズムは、我々の暮らす世界の「無意味」を補填する為に「異界」或いは「他界」という観念的な道具を発明する。この世界は「他界」の影絵に過ぎないと錯覚させるオカルティズムの常套的な手段は、如何なる価値も認めないニヒリズムとは対蹠的に、あらゆる事実に先行して存在する超越的な「イデア」(idea)の絶対性を固く信仰している。換言すれば、夏雄の崇拝する超越的な「価値」は「美」から「他界」へと書き換えられてしまったのである。

 神秘の魅力というものは本当に伝えにくい。酒を呑まない人に酒の魅力を伝えるのは、これよりずっと易しいにちがいない。その魅力の第一は、われわれに世界の縁のところにいるという感じを抱かせてくれることだ。それは丁度極地の探検や、処女峰の征服に似ていて、自分が人間の住む世界の外れの外れまで歩いてきて、身一つで、直に他界に接しているという思いなのだ。神秘が一度心に抱かれると、われわれは、人間界の、人間精神の外れの外れまで、一息に歩いて来てしまう。そこの景観は独自なもので、すべての人間的なものは自分の背後に、遠い都会の眺めのように一纏めの結晶にかがやいて見え、一方、自分の前には、目のくらむような空無が屹立している。

 僕は画家だから、こういう精神の辺境の眺めはよく承知しているつもりでいた。でも、画家はそこに立って、造型を完成すれば、又カンヴァスを折りたたんで、人間たちの聚落へ帰って来るのだ。神秘家たちはそれでは満ち足りない。神秘家たちのもっとも重要な仕事は、この世とあの世の交信、実体と虚無との交信ということだ。(『鏡子の家新潮文庫 pp.601-602)

 芸術とオカルティズムとの間に存する半歩の隔たり、或いは両者の根本的な親和性の消息に就いて、これらの文章は明瞭に、饒舌に物語っている。芸術家が「虚無」を審美的な感受性の命令に従って自在に切り取り、或る人間的な尺度と構図の中へ移植するのに対し、神秘家たちは「虚無」そのものを覗き込んで、その背後に秘められた潜在的な「意味」の体系を汲み出そうとする。いや、寧ろ神秘家たちの使命は「虚無」そのものとの奇態な合一を果たすことではなかろうか? 彼らにとって明晰な観念や意味の体系は重要な価値を持たない。彼らは「無意味」そのものと融合し、不可解な「象徴的構図」に呑み込まれながら、明晰な意味が析出される以前の底知れぬ暗黒に身を投じるのである。彼らの紡ぎ出す多様な物語は「意味」の論理的な聯関を自在に逸脱している。それは彼らが最早「人間的価値」というものを聊かも信じていない為に生じる現象である。

 神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、急に人間界のほうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のように、解釈しやすい数式のように見える。世界政治の動向も、経済の帰趨も、青年層の不平不満も、芸術の行き詰りも、およそ人間精神の関与するものなら、彼には、簡単な数式のように解けてしまい、あいまいな謎はすこしも残さず、言葉は過度に明晰になる。……しかし神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまい、世界の解釈を放棄し、その言葉はすみずみまでおどろな謎に充たされてしまう。(『鏡子の家新潮文庫 p.603)

 虚無は如何なる意味も価値も認めずに黒々と塗り潰してしまう。神秘家は虚無を肯定し、その危険な奥地へ意気揚々と分け入り、あらゆる人間的な価値を超越して「他界」へ移行してしまう。換言すれば、オカルティズムとは一切の人間的価値に対する峻厳で深刻な「絶望」の表明なのである。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)