サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「月影」 1

 人から、どういう娘さんでしたかと訊かれる度に、私の唇は堪え難い重圧のために素気なく閉ざされてしまう。そうした現象に抗おうと試みても、鋼鉄の城門のように、或いは濠を渡る頑丈な跳ね橋が敵襲を察して遽しく引き揚げられるように、私の唇は半ば自動的に封じられ、滾り立つ言葉の曖昧な泡沫は、気道の奥底へ再び沈められてしまう。改めて問い質されると、不意に何一つ分からず、見えなくなってしまうのだ。そうした現実に打ち拉がれ、絶望の底知れぬ洞穴に滴り落ちる鍾乳洞の石灰水のように、冷汗が背筋を伝って尻まで流れ落ちる。どういう娘さんでしたか? その問い掛けは必ずしも重大な含意を伴って、私の鼓膜に向けて投じられる訳ではない。相手は寧ろ、私の悲惨な境遇に対する憐憫を懐中に抱いて、飽く迄も控えめで温和な口調で、励ますように、力づけるように、私に哀しい追憶を命じているだけなのである。その穏やかな善意の水底に錘のように沈んでいる一抹の醜悪な好奇心の燦然たる光に、私としても気付いていない訳ではない。幾ら鈍感で世間知らずで浅薄な父親に過ぎない私にも嗅ぎ取れるほどには、彼らの好奇心は厚かましい野蛮さを備えている。だが、そうした野次馬の性根を誰が大っぴらに批判出来るだろうか? 私が若しも彼らと同じ立場であったならば、乏しい自制心を悍馬の如く乱暴に食い千切って、もっと不躾な口吻で、類似の質問を矢継ぎ早に浴びせ掛けたかも知れないのだ。そもそも、私に誰かを批判したり断罪したり嘲罵したりする資格が備わっているかどうかも甚だ心許ない。私は何にも現実を見ていなかった。確かに人並みに、近眼の濁って歪んだ瞳を使役して、四囲の現実を思慮深く眺めて把握している積りではいた。自分が身近な他人よりも現実認識の精度に関して、殊更に劣っていると考えなければならない理由は持ち合わせていなかった。けれども、総てが過ぎ去った今となっては、そうした自信の薄弱な根拠に驚愕するばかりである。私は明らかに盆暗で、人間の子の親として振舞うには値しないほどに、世界に対して盲目的な男であった。今でも盲目的な日々を送っているという呆れ果てた現実は聊かも変じていない。

 燈里(あかり)は、我々夫婦にとっては一粒種の大事な娘であった。永い永い寡黙な治療の涯に漸く授かった貴重な命であり、生まれてからも繊弱な体質を絶えず引き摺って、透き通るように白く滑らかな肌はいつでも蜉蝣の顫える翅のように蒼褪めて見えた。私も妻も、彼女の蛍火のように儚い性来の体質を常に不安がり、僅かな風邪や発疹でも大いに気を揉み、まるで腫物を扱うように心を砕いて育てた積りであった。だが、それは我々が二十年後の未来を見通していたことの証拠という訳ではない。如何に繊弱な人間であっても、生身の肉体を携えた平凡な一人の娘が、夜半の窓から月明かりへ向かって緩やかに飛翔するなどという奇態な事件が起こり得ようか? 白く繊細な柔膚と、艶やかで大振りな黒眼と、色素の薄い長い髪と、余り動かない顔の筋肉、淡い桃色の唇、そういった身体的な指標から、あのような夜の到来を予見すべきだったと、誰が声高に我々の無思慮を責められるだろうか? 想像力の欠如を咎められるだろうか?

 永い永い不妊治療の生活、足掛け三年に及んだそれらの苦痛と忍辱に覆われた日々、それを乗り越えて遂に地上へ生を享けた体重2800gの女の嬰児、感涙と歓喜、そして口を開いた育児という果てしない洞穴への新米らしい不安と慄き、こうした凡庸な光景の渦中で、彼女の天空に対する親密な感覚さえも冷静に見定めるべきだったと、誰かに賢しらな口調で嘲られる筋合いはない。我々夫婦は、乏しい力と才覚と智慧と勇気を日々果汁のように振り絞って、繊弱で蒼白い娘の健やかな成育の為に、多くの時間と労力を費やした。遣るべきこと、工夫すべきことは幾らでも無限に真夏の雑草のように湧いた。妻はなかなか母乳が出ず、娘の薄い唇の筋肉は弱々しくて、乳首を強く吸うことも出来なかった。乳を呑む量が乏しいのだから、体重も増えず、免疫も育たない。泣き声も虫のように儚げで、始終懶げに眠っている。それさえも、彼女の背負った特異な宿命を暗示する痕跡であり、証明書であったと世間は囁くのだろうか?

 それでも徐々に、緩慢な速度であったとしても、彼女は人並みの赤ん坊の示す様々な徴候を増やしていった。当然のことながら、夜泣きの声音も次第に大きくなり、音の輪郭を鮮明に顕わし始めた。煌々たる満月の夜は、殊更に夜泣きの頻度が高く、音量も鼓膜を突き刺すようで、我々は何時も寝不足の夜明けを迎える慣わしであった。その反対に、新月の夜は奇妙なほど穏やかに彼女は寝入った。明け方まで殆ど身動きもせず、まるで屍体のように大人しく夢の深みへ溺れているのだ。そういうとき、我々は却って不安で、静かな夜であるのに穏やかな眠りからは遠く隔てられてしまうのだった。