サラダ坊主日記

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虚無と諧謔 三島由紀夫「美しい星」

 三島由紀夫の『美しい星』(新潮文庫)を読了したので、拙い感想を書き留めておく。

 死の臭気と濃密な官能の織り成す厳粛で陰惨な悲劇を描き出すことに長けた三島の文学的経歴の中で、荒唐無稽の絵空事の代表とも目される「宇宙人」や「空飛ぶ円盤」の登場する本作は、作者の文学の本流から逸脱した異色の作品であると看做されることが多いかも知れない。けれども「宇宙人」や「空飛ぶ円盤」という材料の表層的な外観に眩惑されて、この「美しい星」を傍流の系譜に属する作品であるかのように定義し、厳格で活発な議論の対象から除外するような態度は、三島の遺した芸術的達成に対する不当な迫害に類する行為であると言えよう。「美しい星」には寧ろ、作者の文学的経歴における重要で決定的な転回の瞬間が明瞭に刻み込まれているのであり、作者がそうした重大な分水嶺へ足を踏み入れる上で、過去の重要な作品の系譜は不可欠のスプリングボードとしての役割を担っているのである。

 軍国主義に覆われた戦時下の特殊な時代に貴重な青春を過ごした三島が、或る巨大で決定的な「滅亡」の魅力に骨の髄まで囚われていたことは、彼の遺した作品を徴すれば直ちに明らかになる端的な事実である。予定された「滅亡」の破壊的な影響力を前提に据えて、眼前の生活に対する特権的な超越性を確保するという実存的な手法は、彼にとって重要な意義を有する崇高な思想であり、絶対的な理念であった。だが、敗戦によって「確実な破滅」の予感を奪い取られた彼は、兎に角眼前の単調で退屈な「人生」に向かって歩み出すことを余儀無くされた。彼の生涯は、そうした「虚無」と「人生」との絶えざる相剋の生み出す種々の悲喜劇に覆われていると看做して差し支えない。

 例えば三島の代表作である「金閣寺」において、語り手である溝口は幾度も「人生」と「美」との根源的な対立関係に就いて苦々しげに述べている。彼が具体的な行為によって織り成された「人生」の領域へ一歩踏み出そうと試みる度に、絶対的な「美」の象徴としての「金閣」が顕現して、彼を虚無的な閉域の深奥へ拉致してしまう。最終的に彼は「金閣」へ放火することによって、半ば象徴的な仕方で具体的な「人生」の領域へ移行しようと企てる。爾来、美しい「金閣」を焼亡へ追い込んだ後の「人生」の形態を精緻に描き出すことが、作者の文学と生活における最も重要な倫理的課題と化した。

 だが、虚無と美のアマルガムによって構成された感性的な恩寵の世界から、様々な社会的通念と人間的価値に縦横無尽に搦め捕られた現実的な「生活」の領野へ移行することは、怪物的な感受性に恵まれた作家にとっては少しも容易な選択ではなかったと思われる。彼の文業には絶えず絢爛たる英雄的な「滅亡」への抜き難い憧憬と、現実的で社会的な、成熟した「生活」への倫理的な衝迫が同時に刻み込まれ、何れの側にも安定的な仕方で偏することが出来ずに無限の振り子のような彷徨を続ける精神の苛酷な様態が克明に描き出されている。

 三島由紀夫の実存の原風景には何時も、荒涼たる「虚無」の暗澹たる色彩が覆い被さっているように思われる。例えば「美しい星」の主要な登場人物である大杉重一郎の内面にも、次のような原初の精神的光景が宿っている。

 東京へ遊びに出かけるたびに、つぎつぎと新築される巨大なビルの、昼間から蛍光燈をともしている窓々が、重一郎に恐怖を与えた。人々は声高に喋りながら、確実にそれらの窓ごとに働いていた。何の目的もなしに!

 重一郎はこの世界に完全に統一感の欠けていることを見抜いていた。すべてはおそろしいほどばらばらだった。すべての自動車のハンドルと車輪とはばらばらであり、すべての人間の脳髄と胃とはばらばらだった。(『美しい星』新潮文庫 p.18)

 世界を統一的に纏め上げる超越的な「意味」の欠如に苦しむことは、ニヒリズムの出発点であり、「虚無」の典型的な症状である。この世界には如何なる意味も価値もないという精神的情況は、三島が「鏡子の家」を通じて詳細な検討を加えた主題である。作者は「美しい星」の中で、かつて山形夏雄という画家が中途で断念したオカルティズムの道程を再び俎上に載せて、その行く末を精緻に描き出したのだと看做すことが出来る。重一郎は「空飛ぶ円盤」との不意の遭遇という事件を契機として、神秘的な「法悦」を通じて「虚無」からの恢復を果たすのである。

 まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を充たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、澄明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。……

 重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして坐ったまま、自分の記憶の底深く下りてゆこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中へつっこんだ手、天井の木目のなかに現われる奇怪な顔、……それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄しと飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向っていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。そしてその廊下の角度は、正確に、円盤の航跡と合していた。

『俺の記憶の源はたしかにあそこにある』と重一郎は考えた。今まではただその事実から目を覆われていただけであったのだ。(『美しい星』新潮文庫 pp.23-24)

 失われ、忘れ去られていた遠い過去の記憶が甦るような仕方で、眼前の世界を虚無的な瓦礫の堆積から救済し、或る超越的な体系と構造を授ける「円盤」の神秘的な性質は、オカルティズムによる強制的で堅牢な「意味の補給」に他ならない。それは世界を不可視の根底から支える絶対的な「意味」の実在を、感覚的な現象に先行させる思考の様式の所産である。換言すれば、こうした精神的様式は、プラトニックな超越的理念の実在に対する揺るぎない信仰の情熱によって形成されているのである(プラトニズムは「思考」を「想起」として定義する慣例を持っている)。無意味な断片の散乱する荒寥たる廃墟のような世界に属して暮らしていた重一郎にとって、唐突に出現した「円盤」の神秘的な啓示は正しく恩寵である。それは無意味な世界に、或る秘められた超越的で崇高な「意味」を補給する源泉として機能する。しかも「円盤」は不意に現れた見知らぬ異邦人ではなく、重一郎の「記憶の源」であり、今まで不幸にも忘却の深淵に没したままになっていた「故郷」へ通じる重要な回路なのである。彼は時空の彼方に沈んでいた自己の「根源」との貴重で神秘的な邂逅を果たしたのだ。それは長きに亘って重一郎の患っていた深刻なニヒリズムの病毒を駆逐する効能を発揮する。

 重一郎は「円盤」との奇怪な邂逅を通じて、人間の暮らす地上の世界に「永遠の平和」を確立するという超越的な使命に開眼する。それは、彼自身が「宇宙人」であるという「覚醒」の体験に基づいた認識から派生した使命である。人間という生き物を遥かなる天上の高みから睥睨する特権を獲得した重一郎は、恰かもメシアであるかのように地上の絶対的な「諧和」の実現を目指して日夜奔走する。

 他方、仙台の大学に助教授として勤める羽黒真澄は、自らを「白鳥座六十一番星」から地球へ到来した「宇宙人」として認識している。彼は重一郎の一派とは対蹠的に地上の「破滅」を希求しており、この「美しい星」という奇態な小説のクライマックスは、大杉重一郎と羽黒真澄との間に交わされる激烈な論争の場面に設定されている。その論争の本質的な焦点は「ニヒリズムに抗して、人間という存在の価値を猶も承認し、肯定し得るか」という命題に集約されるのではないかと思う。もっと約めて言えば「ニヒリズムヒューマニズムとの相剋」という具合に纏められるかも知れない。

 人間という存在に価値を認める一切の思想を安直に「ヒューマニズム」と呼称する場合、そうした朗らかな思想に対して「ニヒリズム」は、最も深刻で致命的な脅威として顕現する。あらゆる「意味」や「価値」の源泉である「人間」への凄絶で執拗な憎悪と敵愾心は、重篤な「ニヒリズム」の優れた温床である。人間的なものを否定するとき、人は必ず否が応でも世界を漆黒の虚無で覆い尽くし、その一切合財を「滅亡」の旋律で包囲してしまわずにはいられない。恐らく作者は大杉重一郎と羽黒真澄との凄まじい「口論」を描き出すことで、両者の優劣を徹底的に問い詰め、追究しようと試みたのではないだろうか?

 だが、作者は決して「美しい星」という奇態な小説を、単純なヒューマニズムに支配された勧善懲悪の物語として拵えた訳ではない。寧ろ彼は考えれば考えるほどに「虚無」と「破滅」の抗し難い現実性に心身を蝕まれて、劇しく苦悶したのではないかと推察される。彼は極限の領域に爪先立って、死病に五体を苛まれるような堪え難い窮状の渦中に我が身を置きながら、辛うじて人間に対する麗しい「讃歌」の文句を案出したのである。

 人間は、朝の太陽が山の端を離れ、山腹の色がたちまち変るのを見て、はじめて笑ったにちがいない。宇宙的虚無が、こんなに微妙な色彩の濃淡で人の目をたのしませるのは、全く不合理なことであり、可笑しな、笑うべきことだからだ。虚無がいちいち道化た形姿を示すたびに、彼らは笑った。平原を走ってくる微風が、群なす羊の毛をそば立たせるのを見て、彼らは笑った。偉大な虚無のこんな些細な関心が可笑しかったからだ。そして笑っているときだけ、彼らは虚無をないもののように感じ、いわば虚無から癒やされたのだ。

 そのうちに人間どもは、自分たちの手で笑いの種子を作るようになった。しかしいつも笑いの背後には、虚無の影が必要で、それがなければ、人間の笑いの劇は完成しない。その劇には、必ず見えない重要な登場人物が背後をよぎり、しかもそれが笑いによって吹き飛ばされる役を荷っていた。(『美しい星』新潮文庫 pp.300-301)

 作者は「人間的なもの」の本質を「虚無への抵抗」という原理の裡に見出そうとしているのではないだろうか? この作品を彩る喜劇的な性質もまた、そうした論理に基づいて醸成されているように私は感じる。

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)