サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「少年性」の原理に基づく断罪 三島由紀夫「午後の曳航」再読 1

 目下、三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を再読している最中である。未だ通読していないが、覚書を認めておこうと思う。

 「午後の曳航」という小説は二部構成の作品であり、第一部の「夏」と第二部の「冬」との間には、明瞭な対照性が賦与されている。銘々の主題に就いては、主要な登場人物である塚崎竜二の内面に関する描写を徴するのが最も分かり易いのではないかと思われる。

 二十歳の彼は熱烈に思ったものだ。

『光栄を! 光栄を! 光栄を! 俺はそいつにだけふさわしく生れついている』

 どんな種類の光栄がほしいのか、又、どんな種類の光栄が自分にふさわしいのか、彼にはまるでわかっていなかった。ただ世界の闇の奥底に一点の光りがあって、それが彼のためにだけ用意されており、彼を照らすためにだけ近寄ってくることを信じていた。(『午後の曳航』新潮文庫 p.18)

  或いは、次のような部分を挙げてみてもいい。

 しかし深夜のワッチに、暗い波浪の彼方、闇にふくらむつややかな海水の堆積の只中に、竜二はなお時折、自分の光栄が夜光虫のように群がり光り、ただ人間世界の絶壁の突端に彼の英姿をあかあかと照らし出すために、ひそかに押し寄せて来るのを感じることがあった。

 そのとき白い操舵室の、操舵輪や、レーダアや、伝声管や、磁気コンパスや、天井から下った金いろの号鐘にかこまれて、彼はなおこう信じることができた。

『俺には何か、特別の運命がそなわっている筈だ。きらきらした、別誂えの、そこらの並の男には決して許されないような運命が』(『午後の曳航』新潮文庫 p.19)

 こうした特権性に対する憧憬と恍惚と陶酔は、所謂「少年性」の中核を構成する心理的特質である。ヒロイズムと言い換えてもいい。自分を特別な人間であると看做すこと、その手懸りを営々と探し求めて倦まないこと、こうした精神的方針が人間の魂から「成熟」の萌芽を奪い取る。無論、実際に或る無名の少年が特権的な栄光に浴する事例は、この広い世界では大いに有り得る事態だろう。だが、塚崎竜二が熱烈に欲する「光栄」とは単なる社会的な名声の類ではないと思われる。彼の希求する「光栄」とは即ち「人間を超越すること」であり、彼自身の言葉を借用するならば「並の男」として生きていくことへの峻厳な拒絶を意味している。換言すれば、彼の熱烈なヒロイズムは「人間的なもの」全般に対する否認の意志を含んでいるのである。

 一方、第二部の「冬」の孕んでいる主題を象徴するのは、次のような記述である。

 次第に輪郭のはっきりして来る水面に堺を接した、とあるビルの非常階段の赤い灯に、竜二は痛切に陸の生活の手ざわりを思い描いた。今年の五月には彼も三十四歳になる。もう永すぎた夢想は捨てなくてはならぬ。この世には彼のための特別誂えの栄光などの存在しないことを知らなくてはならぬ。倉庫の弱い軒明りは、灰青色におぼめく朝の最初の光りに、なおかつ目覚めまいとして逆らっているけれど、竜二はもう醒めなくてはならぬ。(『午後の曳航』新潮文庫 p.107)

 この述懐が竜二の内面における重要で決定的な転回を明示していることは論を俟たない。海洋の孤独と、熱帯の太陽に象徴される果敢な冒険の日々に埋没して暮らしてきた一人の「英雄」は遂に、偶然知り合った女との愛慾に支えられた「諧和」に憧れて、陸上の生活へ、つまり如何なる特権的な栄光とも無縁の俗っぽい小市民の街衢へ、自らの生の根拠を移管しようと試みている。それを竜二自身は一つの健全で成熟した「覚醒」であると定義しているが、少年たちの視線と立場にとって、竜二の選択した決定的な転回は紛れもない「腐敗」の類例に他ならない。一般的で凡庸な家庭の幸福に足許を掬われること、特権的な栄光の授けられる可能性を雄々しく断念して、退屈で空虚な地上の生活に骨の髄まで蝕まれること、それは竜二にとっては「成熟」であっても、登たちにとっては唾棄すべき歴然たる「堕落」の形態に過ぎないのだ。

 少年と大人との対立、父と子との対立、破滅と生活との対立、美と人生との対立、これらの二元論的な構図は絶えず三島由紀夫という作家の生涯を呪縛し続けた重要な主題であったと言える。ニヒリズムとは煎じ詰めれば「破滅の思想」であり、一切の「生」に対する嫌悪の情熱であり、全的な破局と滅亡に対する絶えざる憧憬である。生きることへの嫌悪と、死ぬことへの憧れ、これらの想念は三島の精神を蚕食する最も根源的な旋律であった。彼は華麗なる文業を通じて常に、両者の相剋の渦中で悪戦苦闘を積み重ねた。無論、彼は絶えず「生きること」への情熱を自らの内面に点火すべく、真摯な努力と研鑽を繰り返してきたのである。しかし、彼の積極的な決断は幾度も深刻な反動と退嬰を伴った。「金閣寺」において「美」を焼き払う決断に深々と荷担しながらも、彼は猶、自身の内側に消え残る「破滅」への欲望を完全に払拭することが出来なかった。「美しい星」の大杉重一郎と羽黒真澄との間で演じられた核心的な議論と問答の極限に至っても猶、彼は長年の宿痾である「破滅の思想」を完全に解毒することに失敗した。そして三島は「午後の曳航」において、世俗の論理に懐柔されて栄光に満ちた英雄的な「死」を断念した男に向かって、苛烈な断罪の矛先を突き付けた。「滅亡」の象徴たる一人の「英雄」が自らの意志に基づき、陳腐な俗情に絆されて退屈な「生活」の深淵に足を踏み入れたことを、三島の内面に生き残った根深いタナトス(thanatos)はどうしても容認することが出来なかったのである。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)