サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「少年性」の原理に基づく断罪 三島由紀夫「午後の曳航」再読 2

 引き続き、三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)に就いて書く。

 今朝彼らは弁当を持って、神奈川区の山内埠頭まで出かけ、倉庫裏の引込線のあたりをぶらついて、いつものとおりの会議をひらき、人間の無用性や、生きることの全くの無意味などについて討議した。彼らはこういう不安定な、すぐ邪魔の入るような会議場が好きなのだ。(『午後の曳航』新潮文庫 P49)

 如何にもジャン・コクトーの「Les Enfants Terribles」という言葉が相応しく見える、この無力で残忍な少年たちの最も主要な精神的特徴を成しているのは、一切の「人間的なもの」に対する憎悪と峻拒の明瞭な志向性である。換言すれば、彼らは独特のニヒリズム、未来に対する堪え難い閉塞感と、社会を構成する大人たちの論理への入念な侮蔑によって構成されたニヒリズムの熱烈な信奉者なのである。

 だが、ニヒリズムとは不可解な精神的現象である。それは人間的な実存に対する根深い嫌悪から出発して徐々に濃縮され、あらゆる人間的な価値への白眼視へと帰結するが、そうした白眼視の状態へ自足することは決して容易ではないのである。例えば「鏡子の家」に登場する有能な会社員である杉本清一郎は、自らの虚無的な思想から一歩も外界へ食み出さぬことによって、世俗の論理に対する完璧な適応と臣従を維持するという極めて複雑なストイシズムを堅持しているが、それが稀少な事例であることは論を俟たない。虚無の状態に留まることは、誰にとっても不可能な難事であり、そこからの脱却を図る欲望の動作そのものはニヒリストであろうとなかろうと変わりがない。或いは、このように定義すべきだろうか。ニヒリストとは、世界の空虚を直視したまま、そこから一歩も身動ぎしない強靭な克己心を保持し得る人間だけに限って下賜される、特異な称号であると。そのように推論を進めるならば、例えば「鏡子の家」に登場する四人の青年の中でニヒリストの称号に値する人物は杉本清一郎だけである。重要なのは世界の破滅と無意味を希求するのではなく、確信することなのだ。その確信の裡に留まって、自らは「滅亡」の到来に手を貸さないこと、それがニヒリストの作法であり矜持の要である。滅亡を殊更に希うことは、人間的価値の暗部に固執しているという意味で、純然たるニヒリズムの規約に反していると考えることが出来る。本質的な意味におけるニヒリストにとっては、人類の救済と滅亡とは等価であり、何れを選ぼうとも世界の虚無的な性質は聊かも改訂されないのである。

「ぷっ」と首領は夏というのに白い頬に、深い笑窪を凹ませた。「彼らは危険の定義がわかっていないんだ。危険とは、実体的な世界がちょっと傷つき、ちょっと血が流れ、新聞が大さわぎで書き立てることだと思っている。それが何だというんだ。本当の危険とは、生きているというそのことの他にはありゃしない。生きているということは存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの無秩序にまで解体し、その不安を餌にして、一瞬毎に存在を造り変えようという本当にイカれた仕事なんだからな。こんな危険な仕事はどこにもないよ。存在自体の不安というものはないのに、生きることがそれを作り出すんだ。社会はもともと無意味な、男女混浴のローマ風呂だしな。学校はその雛型だし……。それで僕たちは、たえず命令されている。盲らどもが僕たちに命令するんだ。奴らが僕たちの無限の能力をボロボロにしてしまうんだ」(『午後の曳航』新潮文庫 P51)

 ニヒリストという種族の本質的な怖ろしさは、彼らが如何なる人間的な価値にも倫理的な規範にも従わず、あらゆる選択と行為を平板な「等価性の原則」の下に理解している点に存する。しかし、この作品に登場する残酷な少年たちは必ずしも一切の行為の等価性を是認している訳ではなく、寧ろ彼らの審美的な腑分けの基準は厳格で緻密である。ニヒリストの本質である「無原則」は、首領を含めて何れの少年の内部にも浸透していない。彼らの最大の特徴は、ニヒリストの堅持する厚顔な「無原則の原則」に存するのではなく、極めて恣意的で主観的な「審美的基準」の絶対化に関わっているのである。

 ――このとき登は、生れてから心に畳んでいたものが、完全に展開され、名残なく成就された、奇蹟の瞬間に立ち会っているような気がした。

 汽笛がひびいてくるまで、まだそれは定かならぬ絵図だった。すべては用意され、この世ならぬ一瞬へ向ってはいたが、そして、えりぬきの素材は整えられ、何一つ欠けるものはなかったが、これらの雑駁な現実の材料置場を、忽然として、一つの宮殿に変える力がまだ足りなかった。

 かくて汽笛のひびきが、突然、すべてを完璧な姿に変える決め手の一筆を揮ったのだ!

 それまでそこには、月、海の熱風、汗、香水、熟し切った男と女のあらわな肉体、航海の痕跡、世界の港々の記憶の痕跡、その世界へ向けられた小さな息苦しい覗き穴、少年の硬い心、……これらのものがたしかに揃っていた。しかしこの散らばった歌留多の札は、なお、何の意味もあらわしていなかった。汽笛のおかげで、突然それらの札は宇宙的な聯関を獲得し、彼と母、母と男、男と海、海と彼をつなぐ、のっぴきならない存在の環を垣間見せたのだ。(『午後の曳航』新潮文庫 P15)

 この神秘的で芸術的な「法悦」の経験は、専ら審美的な規範に基づいて構成されており、そこに世俗の道徳的な規矩や社会的な契約の束が容喙する余地は毫も存在していない。窃視された母と男との情交の光景が、これほど少年の精神に重大な衝撃を及ぼすのは、専ら少年の生得的な「感受性」の秩序の問題である。あらゆる感性的な規範は、幼年時代の淵源に存在する元型的な理念の性質によって拘束され、決定されている。「金閣寺」において、語り手の僧侶である溝口が「心象の金閣」を「現実の金閣」に優越させたように、感性的な「美」の基準は予め銘々の精神の深層に刻印されており、先験的な仕方で私たちの主観的な判断に優越しているのである。

 こうした審美的な規範を社会から賦与された諸々の猥雑な規則や慣例に対して常に優越させること、それが「午後の曳航」に登場する少年の集団を統御する至高の原理であり、重要な理念である。こうした観念に囚われた存在の立場から眺めるとき、船乗りとしての塚崎竜二は紛れもない「英雄」であり、少年たちの審美的な規範に合致する別格の「大人」として位置付けられる。或いは、塚崎竜二は審美的な規範に従って生きることで、地上の社会に蔓延する通俗的で退屈な「良識」に対する執拗な排斥の方針を貫徹する「少年」として顕現していると看做される。彼は「父親」として生きることを拒絶する存在である限りにおいて、残酷な少年たちの堅持する審美的な規範に合致するのである。

 何度も「寒くはないか」と尋ねながら、竜二は自分の心にも何度となく尋ねていた。本当にお前は捨てるか? あの大洋の感情、あの常ならぬ動揺がお前の心に絶えず与えていた暗い酔い心地を。別離のすばらしさを。流行歌の甘い涙を。……彼が男であり、世界から隔絶して、ますます男であることを推し進めるような状況を。

 厚い胸にひそむ死への憧れ。彼方の光栄と彼方の死。何でもかんでも「彼方」なのであり、是が非でも「彼方」なのだった。それを捨てるか? 暗い波のうねりや、天の雲の辺際の崇高な光りに、いつも直接に接していたために、心の中がねじ曲って、堰き止められては野放図に昂揚して、一等けだかい感情と一等陋劣な感情との弁えのつかなくなった、そしてその功罪をすべて海に託けてきた、そんな晴れやかな自由をお前は捨てるか?(『午後の曳航』新潮文庫 P107-P108)

 少年たちの審美的な規範が最も尊んでいるのは「悲劇性」である。悲劇的な美しさ、その気高く壮麗なヒロイズムだけが、少年たちの内なる空虚を癒やす光輝を携えている。そうした心理的動向の根底には、陸上の生活に対する嫌悪、或いは生きることそのものへの嫌悪が潜んでいる。悲劇的な性質は謎めいた奇態な「彼方」に対する純一な欲望だけを自らの伴侶に選ぶ。陸上では、如何なる悲劇も退屈な日常の連鎖に巻き込まれて、その特権的な「光栄」を強制的に剥奪されてしまう。「彼方」に憧れ続けることが「少年」の特権であるならば、単調な「動揺のない生活」を受容することは「父親」の特権である。塚崎竜二という悲劇的な神秘を身に纏った貴重な「英雄」の「父親」への転身は、少年たちの眼には度し難い「罪科」として映じる。彼らは裏切った「英雄」を断罪することで、自らの信奉する「少年性」の原理を外夷から防衛しようと試みる。

 夢想の中では、栄光と死と女は、つねに三位一体だった。しかし女が獲られると、あとの二つは沖の彼方へ遠ざかり、あの鯨のような悲しげな咆哮で、彼の名を呼ぶことはなくなった。自分が拒んだものを、竜二は今や、それから拒まれているかのように感じた。

 今までだって、炉のように燃えさかる世界は彼のものではなかったが、それでも熱帯のなつかしい椰子の下では、太陽が脇腹に貼りついて、鋭い歯でそこを嚙み砕くのを感じたものだ。今は燠だけが残っている。平和な、動揺のない生活がはじまるのだ。

 彼はもう危険な死からさえ拒まれている。栄光はむろんのこと。感情の悪酔。身をつらぬくような悲哀。晴れやかな別離。南の太陽の別名である大義の呼び声。女たちのけなげな涙。いつも胸をさいなむ暗い憧れ。自分を男らしさの極致へ追いつめてきたあの重い甘美な力。……そういうものはすべて終ったのだ。(『午後の曳航』新潮文庫 P173)

 この痛切な述懐は、作者自身の「青春」に対する苦々しい挽歌のように聞こえる。彼は自分自身に言い聞かせるように「彼方」への根深い憧憬の無益を語り、そこからの離脱の決断を声高に謳っている。しかし、少年たちの手で竜二が処刑されるであろうことは確実であり、自らの倫理的な意志に基づいて「父親であること」を選ぼうとした己の考えそのものを、作者の内在的な「少年性」の残滓が批判していることも確実である。作者は終生「悲劇」への欲望を棄却することが出来ずに、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自刃を遂げた。それを奇怪で滑稽な狂人の演じる「喜劇」として嗤笑するのは無論、陸上の生活に慣れ親しんだ成熟した「父親」たちの当然の権利であろう。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)