サラダ坊主日記

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無意識の偽善者 三島由紀夫「絹と明察」 1

 三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)の再読を卒えたので、今は同じ作者の『絹と明察』(新潮文庫)という小説を読んでいる。

 滋賀県彦根市に本拠を置く近江絹絲紡績という会社の労働争議(この会社は、今も商号を改めて事業を継続しているそうだ)を題材に選んで書かれた、この風変りな表題を有する小説は、東京都知事選に取材した「宴のあと」と類似した感触を備えている。事態の推移を自在な立場から観察する証言者の存在も共通している(「宴のあと」における選挙参謀の山崎と「絹と明察」における岡野、或いは芸者上がりの寮母である菊乃)。実際に起きた社会的な事件から材料を抽出している所為か、如何にも三島らしい観念的な修辞や構成が節約されて、物語の全体が娯楽的な速度に充ちている。少なくとも「禁色」や「鏡子の家」よりは遥かに読み易く、例えば「午後の曳航」に象嵌されている類の執拗な観念的構図に煩わされる心配も余り大きくないと言える。

 この物語の実質的な主役である駒沢善次郎に関する描写を読みながら、私は「無意識の偽善者」という言葉を想起した。尤も、私はこの言葉が登場する夏目漱石の「三四郎」を読んだ経験がないので、漱石の提示した省察や議論を元手に「絹と明察」を論じるという選択肢には踏み込むことが出来ない。ただ、三島の鋭利な筆鋒を通じて描き出される駒沢の感傷的な家族主義と酷薄な企業経営の手法との度し難い矛盾を要約する為には、この「無意識の偽善者」という慣用句は手頃な射程を備えていると言えるだろう。

 駒沢の掲げる「家族主義」のアナクロニズムは凄まじい異臭を放っている。彼は家族主義の感傷的な情熱を活用して、苛酷な労務環境を糊塗し、結果的に事業の急激な拡張を成功へ導いている。若しも駒沢が「不都合な真実」を歪めて隠匿する為に、麗しく欺瞞的な家族主義の建前を戦略的に悪用しているのならば、恐らく岡野は駒沢善次郎という人物に過大な関心を寄せなかっただろう。厄介なのは、駒沢自身が古色蒼然たる「家族主義」の理念を心の底から信仰し、しかもそれを苛酷な労務環境という己の事業の現実に背反するものとしては捉えていないという奇態な矛盾である。彼は己の善意を完全に信頼して、それが生み出す不幸な現実の形態さえも、善意の甘ったるい糖衣で包んでしまうことに疑問を懐こうとしない。そうした欺瞞的な意識が、彼の内部で首尾一貫した透明な論理のように機能し得るのは何故なのだろうか?

 換言すれば、駒沢善次郎という人物は四囲の現実に対する公正で客観的な「明察」を徹底的に欠いている。彼が若しも陰惨な「明察」に基づいて、工員に対する苛烈な待遇を意図的に作り上げているのであれば、駒沢は簡明極まりない「資本家の悪徳」を体現しているだけの人物ということになり、その感傷的な欺瞞は、外部の社会に対する欺瞞であっても、己に対する欺瞞とはならない。つまり彼は四囲の現実のみならず、自己に対する明察さえも欠いているのである。

 日本という古井戸の底は涸れ果て、低賃銀労働を汲み出す井戸はみんな閉ざされた筈であるのに、まだその底から、何ものかの力につながることによって、こんな利潤を生み出せるのは無気味なことだ。駒沢のやることは福利施設的偽善にみちみちているのに、駒沢はそれをつゆ偽善と思わず、民衆的心情に寄食してそこから利潤を得ているのに、毫も民衆を怖れていない。もちろん村川も、侮蔑や偽善は少しもきらいではないが、そこには相手を向うにおいての、こちらの心の技術的な操作が介在している。ところが駒沢は、その顔の絹の肌のように万事がつるりとして、民衆を軽んじながら民衆と一体化し、古井戸を掻い出しながら地霊と親戚附合をし、自分の善意を一度も疑ったためしがなかった。(『絹と明察』新潮文庫 P165-P166)

 駒沢の価値観は専ら「動機」に依拠している。彼は不気味なほどに内面的であり、事実の客観的な把握は絶えず「動機」そのものの善悪に半ば自動的に還元されてしまう。或る行為の根源となる動機が純然たる「善意」によって占められているならば、行為自体の齎す現実的な結果の善悪は問われず、如何なる災厄も「善意」の産物として無条件に肯定される。この客観的事実に対する恐るべき「蔑視」に基づいた思想が、事業家としての駒沢善次郎を駆り立てる驚異的な情熱の源泉を成している。作中に登場する言葉を引用するならば、恐らく「完全な感情の球体」(P347)という表現が最も適切に駒沢的な論理の核心を要約していると言えるだろう。如何なる不都合な真実に逢着したとしても、決して矛盾を生じることのない、完璧なイデオロギーが駒沢善次郎という特異な人物の並外れた「才能」の根拠なのである。

 駒沢の心には、どうしても薙ぎ倒すことのできない強い楽天主義の雑草が生い茂っていた。その雑草のおかげで、彼は人間を愛することができた。寒帯に住む人が象を見たことがないように、彼は孤独というものの姿を見たことがなかった。人間世界はひろびろとしていて、まことに景色がよく、彼が呼べば谺が答え、要するに、人間同士の心の交流などというものはあまり意に介しなかった。もちろん悪意や害意は、のびやかな波を描いて人の心に届くことなどは覚束なく、それ自体が閉塞状態にあって、従ってたとえ悪意を抱いても、それが人に通じる心配もないわけだが、善意や慈愛は、必ず人の心に届くのだ。あるときは日光のようにまっすぐに、あるときは蜜蜂に運ばれる花粉のように、さまざまの迂路をえがいて。(『絹と明察』新潮文庫 P231)

 こうした駒沢の独特な信念を「鈍感」の一語を以て葬ることは容易いが、本質的な問題は「何故そこまで彼は鈍感でいられるのか?」という懐疑の泥濘に踏み入ることである。彼の驚嘆すべき「善意」と「博愛」が、四囲の「現実」や「他者」に対する根源的な排斥と峻拒に基づいていることは確かである。彼は常に自分勝手に想像された独我論的な「他者」の幻想に基づいて様々な感情を懐き、種々の判断を下している。彼は生身の個別的な「他者」の素顔や内実に特段の関心を払わないことを、半ば無意識に専ら個人的な規約として遵守しているように見える。過剰に美化され、大袈裟に修飾された家族主義の情熱もまた、そうした銘々の具体的な他者を一般化された他者の「幻像」に置換する心理的な詐術から、その成育の為の夥しい養分を吸収しているのである。駒沢にとって、四囲の現実や他者の実存は、自らの閉鎖的な主観の内部で培養された「理念」以上の意義を持たない。煎じ詰めれば、彼の眼に映じるものは総て「自己の延長」であり、他者や現実の一切合財を悉く呑み込んで乱暴に包摂してしまう無際限のエゴイズムが、駒沢善次郎の奇態な信念を根底から支えている。他者の存在を、拡大された自己の「部分」として措定する考え方は、他者に対する表層的な寛容を育むと同時に、他者に対する本質的な敬意の醸成を致命的に阻害する。自他の境界線を否定することは、過剰な親密さを自分以外の誰かに向かって要求することであり、従って他者の主体性や独自性に対する適切な「敬意」は必然的に、その存立の根拠を喪失することとなる。駒沢の信奉する家族主義的な情熱は、決して寛容な博愛に類するものではなく、極限まで肥大しても猶、留まるところを知らない放縦なナルシシズムの発露なのである。

絹と明察 (新潮文庫)

絹と明察 (新潮文庫)