サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

無意識の偽善者 三島由紀夫「絹と明察」 3

 引き続き、三島由紀夫の『絹と明察』(新潮文庫)に就いて書く。

 血栓性の脳軟化症に犯されて病床の生活を始めた駒沢善次郎は、大槻との対決を通じて危うく揺らぎかけた持ち前の「慈愛」と「善意」の論理を辛うじて守り抜き、或る澄明な境涯へ到達することとなる。

 彼は一瀉千里に恕し、ローラーのように均しなみに恕した。近江八景を案内した駒沢の生涯の盛りの日に、大社長たちの目の中にあらわに浮んでいた蔑みの色をも恕した。彼の留守にみすみす争議の起るのを防げなかった無能な重役たちをも恕した。それから顔を見たこともない秋山という仇敵をも恕した。大槻にいたっては! ああ、あいつを恕せなくてどうしよう。たった二度の出会を通じて、駒沢に青年の愚かしさを残る隈なく示したあの男を恕せなくてどうしよう。

 彼だけが知っている真理と、彼だけが大切にしている心と、その二つに二つながら盲らな人々を、駒沢はなぜあれほどまで憎んだのか、自分でもわからなくなった。今、こうして先のわからぬ病床で、駒沢がその自分一人の知恵を、湯たんぽのように抱いて身を温めてゆけるのも、みんな人々の無智がそれを護ってくれたおかげではないか。無理解は理解よりも、こんな風に相手をよく護ることがあるのだ。(『絹と明察』新潮文庫 P335-P336)

 大槻が駒沢に与えた痛烈な一撃の効果は、不慮の病魔の襲来によって曖昧に減殺され、この期に及んでも猶、駒沢の抱懐する年季の入った自己完結的論理の構造は頑強に温存されている。彼が万人に対する寛恕を繰り返し自らに向かって祈祷の文句のように言い聞かせるのは、彼の心境や思想が根源的な転回を成し遂げたからではない。彼は寧ろ「無理解は理解よりも、こんな風に相手をよく護ることがあるのだ」という奇怪な解釈の逆転を試みることによって一層強固に、自己の信奉する完璧な「慈愛」の論理の堅牢な防御力を錬磨しているのである。彼があらゆる対象を「ローラーのように均しなみに」赦免することが出来るのは、他者の個別的な情況を捨象することで、公平無私の「慈愛」を無際限に発露するという従来の駒沢的論理が概ね無傷であることの明瞭な証左に他ならない。確実な死を予定された重篤な病者という境涯が、駒沢から諸々の社会的な責任と義務を剥奪したことで、彼は幸運にも「他者」との透明で抽象的な「距離」を奪還することに成功した。労働争議の危殆を通じて露わになった「他者」の生々しく異質な相貌は再び観念的な夢幻の彼方へ退却し、駒沢は持ち前の「慈愛」と「善意」の論理を誰にも憚ることなく存分に活用し、自在に敷衍する権利を取り戻したのである。

 彼はうつらうつらし、目ざめ、又眠った。たとしえもなく快い気持で、病人の身も忘れてしまった。それを思い出させるのは、断続的に起る菊乃の鼾だけだった。この女は、何のためかして、思い出したくないものだけを執拗に思い出させる。彼についに取りついて、彼のいちばん煩わしい器官のようになってしまった女。(『絹と明察』新潮文庫 P339-P340)

 懸命な看護に挺身する菊乃に対する駒沢の屈折した「憎悪」の感情は、彼に特有の心理的な「遠近法」の構造を如実に示していると言えるだろう。語弊を怖れずに思い切って要約してしまえば、駒沢は「他者」との適切な関係を構築する能力を欠いているのである。彼にとって「他者」とは「自己の延長」に他ならず、生身の「他者」を「自己の延長」として定義する為には、他者との間に、その異質性や固有性が稀釈されるのに充分な「距離」が確保されていなければならない。「距離」の欠如は直ちに「他者」の実相との直面を齎すことになるから、そうした事態は駒沢的な「慈愛」の論理の孕んでいる抽象性を毀損することに帰結する。菊乃の生々しく直接的な存在感は、駒沢の浸っている生温い自己完結的な「諧和」の境涯を擾乱してしまうのである。

 とうとう岡野は耐えきれなくなった。そういう人間性に反する場面があまり永くつづくと、立会っている岡野の皮膚に、何か湿疹に似た痒みが俄かにひろがって来るような気がする。

 彼には駒沢の恍惚が手にとるようにわかる。今や再起の覚束ない病床に在って、彼が久しく願っていた花を、その人間の感恩報謝の心の明証を、確実に手に入れた喜びがひしひしとわかる。しかし岡野には、人間の生涯がそんなに丸くすんなりと治まることへの云いしれぬ嫌悪があり、又、彼自身も、こんなありそうもない至高の瞬間を成就するために働らいたわけではない。岡野は弘子をほとんど憎んでいた。(『絹と明察』新潮文庫 P348)

 駒沢的な論理に対する牢固たる嫌悪を隠し持ち、駒沢紡績における大規模な労働争議の勃発を促すべく暗躍した岡野にとって、駒沢と弘子の演じる「完全な感情の球体」の場面は唾棄すべき情景に他ならない。少なくとも岡野にとって「完全な感情の球体」は「人間性に反する」心理的な現象なのである。駒沢善次郎の「善意」と「慈愛」の哲学は、或る特権的で独善的な超越性の実在を前提に据えた崇高な「宗教」の臭気をたっぷりと吸い込んでいる。彼は人間の普遍的な「善性」を信じて疑わない。しかも、その情熱的な妄信の源泉は、彼が「他者」と「世界」の身も蓋もない現実から眼を背けることによって切り拓かれている。こうした主観的な瞞着を、岡野は芯から忌み嫌い、密かに嘲笑してきた。けれども、その嘲笑は結局のところ、駒沢的な論理の討伐には至らなかった。寧ろ病床に在って駒沢は、自らの誇大な妄想に彩られた「慈愛」の論理の麗しい完成に達したのである。

絹と明察 (新潮文庫)

絹と明察 (新潮文庫)