サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 7

 引き続き、三島由紀夫の『春の雪』(新潮文庫)に就いて書く。

 聡子の納采の日取りが十二月に定まり、愈々禁じられた関係の破局が間近に迫って感じられるようになると、曖昧で抽象的な「罪悪」の幻想に溺れて情熱的な逢瀬を繰り返してきた清顕の心にも、微妙な変化が兆し始める。換言すれば、彼の聡子に対する執着の感情が従前の遊戯的な性質を失い、最早引き返すことの能わない絶望的な恋着へと変貌を遂げたのである。

 その晩、清顕の苦悩は果てしがなく、いつまで聡子は夜の約束を拒むだろうと思うと、彼は世界全体から拒まれているように感じて、その絶望の只中で、もはや自分が聡子に恋しているということに疑いがなくなった。

 今日の涙を見ても、聡子の心が清顕のものであることは明らかだったが、同時に、心の通い合うだけでは、もう何の力にもならぬことがはっきりしたのだ。

 今彼が抱いているのは本物の感情だった。それは彼がかつて想像していたあらゆる恋の感情と比べても、粗雑で、趣きがなく、荒れ果てて、真黒な、およそ都雅からは遠い感情だった。どうしても和歌になりそうではなかった。彼がこんなに、原料の醜さをわがものにしたのははじめてだった。(『春の雪』新潮文庫 p.337)

 無論、このような恋愛の苦しみは誰の心にも襲い掛かる凡庸な悲劇に過ぎないと断じることは非常に容易であろう。事実、過剰に燃え上がった依存的な執着心が、現実の様々な艱難に精神的融合の契機を妨げられて、堪え難い絶望の泥濘へ埋没することは、世上の随処で営まれている普遍的で匿名的な惨劇である。

 だが、当初は遊戯的な企みから始まった典雅で流麗な悲恋の映像が、現実的な事態の複雑化に直面して愈々禍々しく屈折し、陰気で血腥い画面へ移り変わっていくことも、恋愛という奇態な営為の抱え込んだ宿命的な成り行きであると言うべきだろう。それは恋愛の失敗した不幸な側面であるというよりも、恋愛という営為に内在する本質的な要素であり、少なくとも「婚姻」という社会的解決の見通しを得られない関係においては、こうした疎隔に伴う深刻な絶望の蔓延は一層明瞭な形で、或る必然性の下に展開する遁れ難い帰結である。

 或いは、三島は「恋愛」という怪奇な心理的現象を徹底的に純化した形で剔抉して、文学的な解剖台へ上せる為に、敢えて「勅許」で隔てられた幼馴染同士の悲恋という筋書きを誂えたのかも知れない。「恋愛」という現代においては凡庸極まりない心理的事象が歴史的に内包してきた「不義密通」の性質を殊更に暴き立てる為には、それが「婚姻」との滑らかな接続の可能性を不可避的な仕方で欠いていることが必要である。「恋愛」は「婚姻」に対立することによって、その本質的な悲劇性を一層露わに開示する。

 宮家との婚姻に関して既に勅許を賜っている立場の聡子と、敢えて性的な関係を取り結び、禁じられた逢瀬を幾夜も積み重ねる清顕の危険な情熱が、恋愛という現象の核心に位置する本質的な悲劇性の典型的な表象であることは明瞭である。言い換えれば、恋愛の本質的な悲劇性は、それが常に「不可能なもの」に対する欲望としての構造を備えていることに由来している。つまり、恋愛の本質とは、恋する当事者間の合一が決して果たされないにも拘らず、それを痛切に希求せずにはいられないという根源的な不可能性の裡に存在しているのである。

 そもそも恋愛という感情は、銘々が個体として固有の生物学的輪郭を賦与され、本来的に或る個別的な孤絶の裡に存在している筈の人間が、そうした原理的条件に抗うような仕方で、他者との間に特別な親密さ、過剰な親密さ、幸福で超越的な全体性、若しくは共同性を構築しようと試みる願望の、最も純化された心理的様式であると言い得る。それは個人が社会の成員として、銘々の自律性を保ちながら実現する緩やかな連帯とは異質な共同性であり、もっと動物的で原始的な親密さへの憧憬によって駆り立てられている。

 だが、恋愛の情熱が単に自他の境界線の抹殺と、両者の想像的な融合に対する衝迫に留まるものならば、それは穢れを知らぬ無垢な幼児の水準を越えるものではない。重要なのは、相互に切り離された個体の想像的な融合が実現し得ない奇蹟であり、それを希求することは常に宿命的な挫折を強いられているという厳粛な真実を理解することだ。そうした苦々しい省察に直面しながら、寧ろ地上の冷厳な摂理に触発されるように、融合への不可能な情熱を喚起されることこそ、恋愛という心理的現象の要諦である。若しも「婚姻」に代表される諸々の社会的関係の目的が「連帯と協同」に存するのだとすれば、その対義語としての「恋愛」の目的は「連帯の不可能性」を感受することに尽きている。或る恋愛が婚姻の段階へ帰結したとき、当事者間の関係性は既に、恋愛の備える固有の悲劇性を脱却して、全く異質な社会的関係の位相へ遷移しているのである。

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)