サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 3

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 純粋とは、花のような観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のような観念、やさしい母の胸にすがりつくような観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるいは切腹の観念に結びつけるものだった。「花と散る」というときに、血みどろの屍体はたちまち匂いやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だった。だから、純粋は詩なのである。

 勲には、「純粋に死ぬ」ということはむしろ容易く思われたが、たとえば純粋で一貫しようとすると、「純粋に笑う」ということはどういうことだろうと思い悩んだ。感情をどう規制してみても、彼は時にはつまらないものを見て笑ってしまった。道ばたの仔犬が、下駄をくわえて来て戯れているのならまだしも、いやに大きなハイヒールをくわえて来て、ふりまわして戯れているのを見たときにも笑ってしまった。彼はそういう笑いを人に見られたくなかった。(『奔馬新潮文庫 pp.141-142)

 「純粋」という言葉の意味は曖昧で広範な性質を備えている。ただ文脈から察するに、三島にとっての「純粋」という観念は、我々の属する通俗的で社会的な現実の本質を成す「日常性」という規矩に背馳するものであると考えられる。「日常性」とは即ち「時間の無限性」の異称であり、従ってそれは三島の信奉する「時間の廃絶としての永遠」という崇高な理念と矛盾する代物である。「純粋に死ぬ」ことは容易であるのに「純粋に笑う」ことは理解し難い行為に思われるという勲の述懐は、そもそも「純粋」という観念が無時間的な性質を備えていることの傍証である。「笑う」という行為は眼前の現実を構成している様々な不合理や矛盾に対する寛容な視線の上に初めて成立するが、それは「純粋」という観念が含んでいる性質とは相容れない。何故なら「純粋」という性質は「正義」という観念に固有の美徳であり、従って「純粋」という価値を称揚することは諸々の不合理や矛盾に対する厳格な峻拒を選択することに他ならないからである。

 純粋という美徳は、正義という観念が内包している美徳と相互に分かち難く結び付いている。それは一切の矛盾や異物を孕まない完璧な同一性を指し示す観念である。純粋であることは、異物に対する厳格な排斥の意識を絶えず堅持することに他ならない。従って純粋な人間は原理的に「笑う」ことが出来ない。何故なら「笑い」は完璧な同一性の破綻に向かって捧げられる肯定の感情であるからだ。

 勲にとっての政治的情熱は、単一の正義に対する完全な服従と奉仕を意味している。重要なのは極限まで「純度」を高めることであり、一切の夾雑物を放逐することであって、混沌たる多様な現実の総てを包摂する寛容な社会的展望を構築することではない。勲の信奉する政治的理想は極めて全体主義的な性質を濃厚に含んでいる。それは如何なる例外も逸脱も許さない「純粋性」を至高の規範に定めている。しかも、その純粋性の観念は現実との具体的な聯関を欠いているのである。

 勲は綱領を作らなかった。あらゆる悪がわれわれの無力と無為を是認するように働らいている世なのであるから、どんな行為であれ、行為の決意が、われわれの綱領となるであろう。……従って又、勲は同志を選ぶための会見では、何一つ自分の企図を語らず、何一つ約束をしなかった。この若者は入れてやろうと思ったとき、勲はそれまで故ら作っていた厳しい顔を和らげて、相手の目を親しげにのぞき込んで、ただ一言、こう言いかけるだけであった。

「どうだ。一緒にやるか」(『奔馬新潮文庫 p.233)

 行為の内容を吟味せず、行為の決意だけを尊重するという奇態な暗黙裡の綱領は、勲の政治的情熱が如何なる具体的な「行為」とも実質的に関連していないことを示している。一般論として、行為の決意云々よりも、行為の内実の方が重要な意義を帯びていることは疑いを容れない。つまり、ここには奇妙な倒錯が生じているのである。この倒錯は、勲が政治的理想の為に殉死を選ぶのではなく、殉死という壮麗な行為へ辿り着く為に政治的理想を活用しているという心理的な顛倒と、構造的に同期している。行為の目的や効果よりも、行為するという決断だけが殊更に尊ばれるという奇怪な原理は、換言すれば行為の時間的な性質を悉く捨象しようと試みる欲望の形態と深く関わり合っていると言えるだろう。行為そのものよりも、行為の決意が重要な意義を帯び、その行為の帰着する結果の内実よりも、行為という一つの枠組みが手厚く扱われるという論理は、或る行為の有する時間的な経過の意味を不当に軽視していると言えるだろう。言い換えれば、その行為は一瞬の奇蹟的な静止画のように眺められ、時間的な幅員を極限まで縮減され、目的や因果といった論理的且つ時間的な構成の制約から切り離された状態で、いわば審美的な鑑賞の対象として留置されているのである。別の角度から事態の構造を観察すれば、勲の蹶起という「行為」の終極的な目標が、当面の目標の成否に関わらず「自刃」の一事に尽きているということも、彼の行為が「時間性」の観念からの脱却を志向していることの証明であると言える。勲の「純粋」という美徳に対する過剰な固執もまた、時間という形式の内包する「腐蝕」の効果に対する反発と抵抗を含んでいるのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)