サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 4

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫という作家は、我々の存在を否が応でも取り囲み、腕尽くで捕縛して決して解放することのない「時間」という奇妙な形式、権力、原理の有する「腐蝕」の作用に就いて、根深い敵愾心を胸底に懐き続けた。彼が殊更に「死」という不穏な運命への憧憬を強調し、そうした性向を様々な作品の細部に明瞭な形で刻み続けた理由も、恐らく「死」という現象に「時間」の魔力からの救済の可能性を見出していた為ではないかと推察される。

 時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内奥の核をなしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積ったにすぎぬのだろうか。(『奔馬新潮文庫 p.253)

 聊か生硬な物言いになるが、本多の歎ずるように「時の流れ」が「崇高なもの」の悲劇的で美しい外貌を刻々と腐蝕させていくのは、時間が本質的に「相対化」という比較級の効力を備えていることの所産ではないかと私は思う。或る事物が如何なる記憶とも想像とも認識とも結合せず、従って少しも比較されずに、或る個体の精神的な領野の全体を覆って、完全に占有してしまうとき、その事物は如何なる外在的な存在によっても侵犯されることのない「絶対性」を身に纏うだろう。時間の経過、或いは「時間」という一つの存在の領域そのものの裡に、崇高な存在の帯びている絶対的な性質を転覆させる力学的な構造が装填されているのである。そうした「時間」の支配を免かれることに情熱を燃やすということは、或る存在の固有な様態を特権的な仕方で「絶対化」することを望むのと同義である。一方、滑稽なものは、常に絶対化された存在の裡に多様な「亀裂」を発見することに愉悦を味わうようなタイプの主体の視野を通じて析出される心理的現象である。絶対的な存在、如何なる比較とも批判とも無縁の存在、それが自らの崇高な性質を保ち続ける為には、時間の有する腐蝕の効能は最悪の宿敵なのである。

 清顕は美しかった。無用で、何ら目的を帯びずに、この人の世を迅速に過ぎ去った。そして美の厳格な一回性を持っていた。さきほどの一セイの謡が、

「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」

 と謡われたあの一瞬のように。

 鋭く、たけだけしいもう一人の若者の顔が、その消えかかる美の泡沫みなわの中から泛び上ってきた。清顕において、本当に一回的アインマーリヒなものは、美だけだったのだ。その余のものは、たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求したのだ。清顕において叶えられなかったもの、彼にすべて負数の形でしか賦与されていなかったもの……(『奔馬新潮文庫 pp.254-255)

 「一回性」という観念が、無限の広がりを有する時間的な領域の秩序に対立する断絶的な性質を孕んでいることは明瞭である。或る存在が一回的である為には、時間の流れは断ち切られる必要がある。何故なら、時間という枠組み自体が不可避的に、或る存在の「反復」の可能性を含んでいるからである。反復される可能性を備えた総ての存在は「美の厳格な一回性」という秘蹟に化身することを予め禁圧されている。言い換えれば「時間の廃絶」という三島の宿願を叶える為には、如何なる「反復」も許さない特権的な行為へ踏み切ることが肝要なのだ。

 我々の存在や精神や行為が、如何なる場合においても反復し難い固有性を備えていると断ずることは容易い。だが、我々が自身の固有性であると特権的に捉えている様々な事柄や要素が、果てしない時間の流れの中で、二度と反復されることのない「一回性」を孕んでいると、厳密に立証することは、実際には不可能に等しい。この瞬間そのものの「一回性」を認める為の根拠は、決して客観的な形では存在しないのである。

 恐らく三島にとって「美」という現象の本質は「一回性」という観念によって構成されている。或る事象が審美的な価値を認められる為には、その事象が「反復されない存在」であることが絶対に必要なのである。反復の不可能性とは即ち「時間の廃絶」に他ならない。時間の流れを断ち切ってしまえば、その存在は自らの固有の形態を「永遠」の領域に定着させ、一切の腐蝕と相対化から保護することが可能になる。少なくとも「死」は、或る個体の固有な形態を一つの額縁の裡に固定し、様々な変容の可能性を一斉に棄却し、総てを二度と書き換えられることのない不動の状態へ遷移させる力を備えているのだ。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)