サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 1

 目下、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)の繙読に着手している。繰った頁数は未だ序盤であるが、断片的な感想を撒き散らしておきたい。

 「美しさ」とは何か、という問題に就いて答えを返すことは決して容易な所業ではない。「美しい」という内在的な感覚が生じるとき、人は如何なる認識の内部に佇立しているのか、その複雑で曖昧な構造の絡まりを綺麗に整序するのは骨の折れる難事である。「美しい」という感覚の内実は、それを享受する人間の数に応じて無限の変奏の形態を有しており、如何なる対象に「美」を見出すかという問題に就いて普遍的で絶対的な基準を樹立することは不可能に等しい。

 従って私は或る個別の「審美的感覚」の内実や、それが形成される条件に就いて事細かな議論や省察に時日を費やそうとは思わない。私が関心を寄せるのは、その内容を問わず「審美的感覚」という現象が一般に有している配置や役割や効果である。

 三島由紀夫の小説を読んでいると、彼にとって「美」という理念が或る超越的な性格を持ち、彼の実際の人生の中で極めて大きな比重を占めていることが明瞭に看取される。彼にとって「審美的経験」という観念は、退屈な日常や平凡な出来事の反復を圧倒するほどに重大な価値を備えているのである。例えば「暁の寺」において、本多のタイ滞在を補助する任務を課せられた菱川という男は、次のような長広舌を揮う。

「芸術というのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭です。さしも永いあいだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によって台無しにされ、永久につづくと思われた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に立ちふさがって、あらゆる人間的営為を徒爾にしてしまうのです。あの夕焼の花やかさ、夕焼雲のきちがいじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などというたわごとも忽ち色褪せてしまいます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちています。何がはじまったのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。

 そこには本質的なものは何一つありません。なるほど夜には本質がある。それは宇宙的な本質で、死と無機的な存在そのものだ。昼にも本質がある。人間的なものすべては昼に属しているのです。

 夕焼の本質などというものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などという色の椀飯振舞をすることはめったにないのです。夕焼雲はあらゆる左右相称シンメトリーに対する侮蔑ですが、こういう秩序の破壊は、もっと根本的なものの破壊と結びついているのです。もし昼間の悠々たる白い雲が、道徳的な気高さの比喩になるなら、道徳に色などがついていてよいものでしょうか?

 芸術はそれぞれの時代の最大の終末観を、何者よりも早く予見し、準備し、身を以て実現します。そこには、美食と美酒、美形と美衣、およそその時代の人間が考えつくかぎりの奢侈が煮詰っています。そういうものすべては、形式を待望していたのです。僅かな時間に人間の生活を悉く寇掠し席巻する形式を。それが夕焼ではありませんか。そして何のために? 実に何のためでもありません。(『暁の寺新潮文庫 pp.16-17)

 三島にとって「芸術」は時間を欠いた存在の形式である。「現前するものがすべて」であると看做されるとき、我々の存在は記憶された過去とも想像される未来とも切り離されて、或る瞬間的な白熱の境涯に置かれている。従ってそれは時間性を欠くと共に、如何なる目的とも、如何なる論理的な構造とも絶縁している。

 人間という生命体の固有な特徴は様々な観点から計え上げることが可能であろうが、恐らく「時間」という発明は、人間を他の生命体から弁別する最も重要で決定的な指標の一つである。記憶と想像という二つの機能の爆発的な発達が銘々「過去」と「未来」という時間的尺度を生成し、人間を「現前するものがすべて」であるような存在の様態から脱却させ、瞬間的な現実との密着の中に暮らしている夥しい数の生命体からの質的な乖離を齎したのである。人間的営為は常に「時間」という伴走者を連れて実行される。

 審美的経験は無時間的な現前の経験であり、それは過去や未来といった非存在的な理念の棄却を伴っている。今この瞬間に感受されている存在が世界の総てであるような経験、現前するものだけで世界が構成されるような経験、それが三島にとっての審美的経験の特質である。従ってそれはあらゆる人間的営為に対する残虐で決定的な破壊の性質を含有している。「美」は時間という人間的規矩を潰滅させる有毒な性質を潤沢に備えているのだ。三島的な論理において絶えず「美」と「死」との間に奇態な親和性が見出されるのは、両者が何れも「時間の廃絶」という特質を有していることの必然的な反映である。「美しい死」に対する濃密で深刻な憧憬は、現前するものへの無時間的な埋没に対する欲望と等価なのである。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)