サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 2

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 「豊饒の海」の第一巻から、常に物語の重要な証言者として登場し続けている本多繁邦は、戦時中の生活を「輪廻転生」の研究に充て、洋の東西を問わず、多種多様な文献を渉猟する。作中における「輪廻転生」に関する様々な言説の煩瑣な紹介は、明らかに「暁の寺」という物語の滑らかな構成を停滞させ、数多の読者の倦怠を誘うと思われるが、この点を作品の瑕疵として指弾するのは、作者の企図や方針を鑑みる限り、不当で狭隘な措置であろう。

 三島由紀夫にとって「美しい死」という観念は、極めて重要な価値を担っている。「美」と「死」は共に、人間の精神を時間の支配から脱却させ、或る無時間的な永遠の位相に封印する超越的な権能を有していると看做される。人間の「生」が絶えず時間の制約と支配の下に置かれ、如何なる局面においても時間の齎す変転の圧力に抗うことを禁じられているという事実に対して、三島は執拗な憎悪を懐き続けた。その憎悪の多様な表現は、彼の書き遺した夥しい数の文学作品の裡に螺鈿の如く鏤められている。

 「輪廻転生」という観念は、恐らく「美しい死」に至高の価値を認める三島的な論理に正面から対立する危険な効能を有している。輪廻の思想は、人間の生命に必ず襲い掛かる「死」という絶対的な断絶の価値を衰微させ、それを一つの凡庸な光景に塗り変えてしまうからだ。死んでも無限に生まれ変わるのならば、我々の「死」は如何なる特権的な光輝も期待することが出来ない。水面の泡沫が弾けるように或る個体が消え失せ、また次の瞬間には新たな個体として再び創造されるのならば、我々は「死」を通じて「時間」の支配から脱却するという夢想への渇仰を断念せざるを得ない。言い換えれば、輪廻とは「時間の無限性」を指す観念であり、それは三島の希求する「無時間的な永遠」の観念と完全に背反しているのである。

 三島が自らの代表作である「金閣寺」において、主役である溝口に語らせた「永遠」への憎悪は、こうした「仏教的な時間」に対する憎悪、無限に繰り返されて如何なる断絶も終焉も決して容認しない「永遠の時間」に対する憎悪を意味している。三島の愛好する「永遠」は、仏教的な輪廻転生の理念が有する「無際限の持続」という性質に対立している。三島的な「永遠」は「時間」という形式の根本的な廃絶であり、輪廻転生の可能性の全面的な棄却なのである。

 従って、三島が敢えて己の持ち前の審美的な論理を貫徹することを目指すならば、輪廻転生の教説は否定されなければならない。輪廻という観念は、死の断絶的な性質を抹消し、それを無限に持続し反復される「生」の循環の部分に組み込んでしまう。そのとき、生死の境界が有する重要で決定的な意味は蹂躙され、消滅してしまう。物理的な次元における生死の差異は、無限に繰り返される「生」の超越性の裡に溶かし込まれ、死は「生」に対する全面的な隷属の状態へ転落する。こうした現象が、三島的な論理の根幹を破壊するものであることは明瞭である。

 病者も、健やかな者も、不具者も、瀕死の者も、ここでは等しく黄金の喜悦に充ちあふれているのは理である。蠅も蛆も喜悦にまみれて肥り、印度人特有の厳粛な、曰くありげな人々の表情に、ほとんど無情と見分けのつかない敬虔さが漲っているのも理である。本多はどうやって自分の理智を、この烈しい夕陽、この悪臭、この微かな瘴気のような川風のなかへ融け込ませることができるかと疑った。どこを歩いても祈りの唱和の声、鉦の音、物乞いの声、病人の呻吟などが緻密に織り込まれたこの暑い毛織物のような夕方の空気のなかへ、身を没してゆくことができるかどうか疑わしい。本多はともすると、自分の理智が、彼一人が懐ろに秘めた匕首の刃のように、この完全な織物を引裂くのではないかと怖れた。(『暁の寺新潮文庫 p.77)

 「ヒンズー教徒たちのエルサレム」(p.73)と称されるベナレスの風景は、輪廻転生という宗教的な理念の齎す人間たちへの影響の様態を見事に反映している。人間が何度でも生まれ変わる永続的な存在であることを定められているのならば、今生の有様が如何なる悲惨に覆われていようとも、絶望や悲嘆に溺れる必要は生じない。人生が崇高な「一回性」の理念から解放され、何度でも回帰する無限の永生として顕現するのならば、死ぬことは聊かも特権的な営為ではなく、生死の境目に就いて過敏で神経質な態度を取る理由もない。総ての事物は普遍的な「黄金の喜悦」に覆われ、一切の艱難と悲劇が否定され、英雄的なロマンティシズムは、独善的な思い過ごしとして嘲笑される。

 ここには悲しみはなかった。無情と見えるものはみな喜悦だった。輪廻転生は信じられているだけではなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を結ぶのと等しい、つねに目前にくりかえされる自然の事象にすぎなかった。それは収穫や耕耘に人手が要るように、多少の手助けを要したが、人はいわば交代でこの自然の手助けをするように生れついているのだった。

 インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦につながっていた! 本多はこのような喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、究極のものを見てしまった以上、それから二度と癒やされないだろうと感じられた。あたかもベナレス全体が神聖な癩にかかっていて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に犯されたかのように。(『暁の寺新潮文庫 p.85)

 こうした「黄金の喜悦」を認めることは、直ちに三島的な「悲劇」の論理の崩壊を招来する。輪廻とは「時間」という形式の永遠的な性質を信仰する思想であり、従ってそれは最終的な「滅亡」という如何にも三島的な観念に対する根源的な否定を含んでいる。読者の感興を扼殺しかねない「輪廻転生」に関する長大な論説が作中に挿入されている背景には、こうした消息が関与していると私は推察する。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)