サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(霜月・「豊饒の海」・老醜)

*2018年も足早に暮れていく。つい此間まで異常な猛暑に苦しめられていたと思ったら、あっという間に霜月の末である。十二月に入れば、小売業の現場は俄かに忙しくなる。此処から年明けの初売りまでは一瀉千里である。そういう忌まわしくも刺激的な季節がまた廻ってきたのだと、凡庸な感慨に耽りながら日々を過ごしている。

 昨秋から始めた「三島由紀夫主要作品完全読破計画」も愈々大詰めを迎え、畢生の大作「豊饒の海」まで辿り着いた。第一巻に当たる「春の雪」を生まれて初めて読んだのは中学生の頃で、そのときは頗る退屈して早々に投げ出してしまった。三島由紀夫という作家に就いて余り詳しくない十代の餓鬼が、初手から「春の雪」に溺れられる理由も特に思い浮かばない。十代の少年には理解し難い文学作品というのは星の数ほどある。それならば齢を重ねてから纏めて耽読すれば良さそうなものだが、若年の裡に読書の習慣を帯びなかった人間が老境に至ってから、満を持して古今東西の名作を繙いたところで、頁を繰る指先が滑らかに進むとも思い難い。結局は、定期的な再読を試みるのが最も良質な選択肢ということになるのだろう。

 一年間、或る一人の作者の著した書物ばかりを読むという経験は生涯で初めてのことである。知らぬ間に頭の中身が三島的な論理と抒情に浸蝕されているのではないかという危惧を時折覚える。尤も、私には到底三島由紀夫のような生き方は出来ない。傑出した能力に欠けているという点は大前提の話で、仮に能力があったとしても、例えばああいう最期を自ら選択する勇気も覚悟もない。三島は徹底して「夭折」を尊重した人である。「日常」を軽蔑し、演劇的なヒロイズムを愛した人である。私はどちらかと言えばヒロイズムの鍍金の裏側に秘められた身も蓋もない真実に惹かれる気質で、英雄的な人生など聊かも望まない。けれども時々、平穏な日常を叩き壊したくなる衝動に駆られることもあり、それは幾らか三島的な性質であるようにも思われる。だが、倦怠に対する憎しみは、偉人凡人を問わず、誰にでも等し並みに突如として降臨する奇態な情熱であろう。

 夭折に憧れるほどの特権的な才能や富貴な出自に恵まれたことのない私にとって、三島的な絢爛たる滅びの世界は縁遠いものだが、だからこそ「三島を読む」という行為には一方ならぬ快楽や興奮が附随する。知らない世界に惹かれるのは人間の本質的な性であり、知らない世界を遮断して少しも痛痒を覚えなくなれば、それこそ三島の憎んだ「老醜」を纏い始めたことの証左になるだろう。隅々まで知悉した世界の内側に閉じ籠もって、手近な窓を開け放ってみようとも思わぬこと、そもそも窓の存在さえ失念してしまうこと、そういう愚鈍な頽落の淵に沈まない為にも、今後も私は読書の習慣を欠かさぬようにしたい。