サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

箴言の螺鈿 三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集である『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)を繙読している。

 「花ざかりの森」に加えて、三島の遺した作品の中では最初期の部類に属する、この「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」という奇怪な表題の小品もまた、或る文章の纏まった列なりが具体的で堅牢な骨格を携えるには未だ至らない段階の、つまり「小説」と称するには聊か断片的であり過ぎるように思われる段階の習作である。芸術的な風貌を身に纏った文章の列なりが、或る独立した作品としての輪郭と結構を伴って離陸する為には、恐らく何らかの論理的な体系による補助が欠かせない。その意味では、これらの短い作品は後年の文豪の肖像を薄らと想起させる文学的な「原質」であると看做して差し支えないのではないかと思われる。或る雑多な原材料を完成された商品或いは製品として自立させる為には、明瞭な設計図や考え抜かれた綿密な工程表、それらを実現する為の具体的な技術力を獲得せねばならない。だが、十八歳の少年が誰でも天稟の芸術的才覚に恵まれ、豊饒な感受性と堅固な技倆との幸福な婚姻を保持しているとは限らない。

 この短篇集の巻末に附せられた作者自身による行き届いた解説は、凡百の批評家を雇うよりも遥かに効率的且つ合理的に、収められた作品の文学的系譜の背景を明瞭に開示してみせている。

 このことは、私のものの考え方が、アフォリズム型から、体系的思考型へ、徐々に移行したことと関係があると思われる。一つの考えを作中で述べるのに、私はゆっくりゆっくり、手間をかけて納得させることが好きになって来て、寸鉄的物言いを避けるようになった。思想の円熟というときこえがよいが、せっかちだが迅速軽捷じんそくけいしょう聯想れんそう作用が、年齢と共に衰えるにいたったことと照応している。私はいわば軽騎兵から重騎兵へ装備を改めたのである。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.281)

 本人の証言する通り、十代の三島が戦時下の青春時代の過程で書き遺した「花ざかりの森」や「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」には、綿密に練り上げられ敷衍された論理の壮大な伽藍の代わりに、次々と目紛しく主観的に移り変わっていく映像の敏速な聯関が隅々まで華美な絨毯のように敷き詰められている。その背景に作者の文学的技倆の未成熟が一因として関与していることは恐らく事実の一端であるが、同時に少年期の三島が「戦時下」という「滅亡」を予告された時代の渦中に生きていた事実を看過してはならない。論理というものは常に時間的な発展と消長の過程の中で編み出され、生滅変化していくものだが、戦時下という歴史的条件はそもそも「未来の消失」という奇態なニヒリズムを醸成する要因として機能する。未来を奪われ、時間の推移を予め堰き止められた状態で暮らす人間に、時間的な枠組みの中で発達する「論理」への欲望を見出すことは困難であろう。彼の豊饒な「聯想作用」の氾濫は、そうした歴史的与件の齎した閉塞的情況のいわば「陽画」なのである。彼は自己の内面の裡に幽閉され、未来を夢見るとしても、そこに具体的な現実の裏付けを求める必要がない。

 螺鈿の如く豊富に隙間なく鏤められた数多の箴言は、動かし難い現実の深層へ錐を揉み込むように食い入っていく論理的な探究の意志とは無関係である。彼は動かし難い現実の表面で、優雅な舞踏に明け暮れるしかない。何故なら、彼は未来を奪われているのだから。従って、彼の文学的な悪戦苦闘が正念場を迎えるには、敗戦という衝撃的で決定的な「断絶」の到来を待つ他ないのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)