サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

硝子越しに眺められた慕情 三島由紀夫「遠乗会」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集である『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)を少しずつ繙読する日々を過ごしている。

 戦後に執筆され公刊された「遠乗会」という短篇は、最初期の部類に属する「花ざかりの森」や「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」と異なり、漠然たる散文詩的な文体を逃れて、彫琢された写実的な修辞で綴られた堅固な小説の構成を獲得している。その端正で切り詰められた文体には、緊密な濃度と骨格が備わり、客観的な事実の構図や秩序を丹念に切り取って読者の眼前へ照らし出してみせる、成熟した技倆の風格が備わっている。

 筋書き自体は、短篇小説であるから、それほど煩雑に仕組まれている訳ではないし、意表を衝くような仕掛けが凝らしてある訳でもない。簡素なスケッチの内側に、如何にも三島らしい皮肉な心理的解剖の効果が砂金を混ぜたように燦めいているというだけの話である。我々はその聊か苦みを帯びた平淡な味わいを堪能すれば良いのである。

 まるで誰もが硝子張りの透明な肉体の裡に数多の感情を潜めているかのように、三島の柔軟で機敏な筆鋒は、作中に仮構された人々の複雑な心理の文目を悉く明晰に浮き上がらせてみせる。表向きの仮面と秘められた本音、その本音の更に奥底へ隠匿された誰も気付くことのない深層の情念に至るまで、作者は仮借無い鋭さで総てを白日の下に曝露する。その華麗な筆致は特に、愛慾と恋情に関連する錯雑した心理の織り目を解き明かすときに最も伸びやかな躍動を示す傾向がある(三島の遺した作品の過半が「愛慾」の世界を取り扱っていることに御留意されたい)。

 ほぼ三十年前に彼女は当時大尉であった由利氏の求婚を拒んだ。何の理由もなく、嫌悪もなく、強制もなしに、である。この結婚は、両家の家柄や財産状態を考えても、当人同士の十歳あまりの隔たりを考えても、何ら障害のない、これと謂って非難すべき点のない縁組であった。それにもかかわらず、ほんのちょっとした少女の驕慢が、それを拒ませたのである。障害のなかったこと、二人の結びつきを妨げるべき何ものもなかったこと、他ならぬこれらの好条件が、彼女には自分の自由に対する侮辱のように思われた。別段強いられた縁組ではなかったのに、鋭敏な彼女は危険を全身で感じる兎のように、この整いすぎた好条件の無言の強制力、何ら妨げのないということそのこと自体が彼女を決定してしまうその理不尽な力を予感した。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.70)

 恋愛の情熱を最も劇しく煽り立てるものが、両者の関係に困難な疎隔を齎す種々の障害であることは言うまでもない。総てが最高の状態で御膳立てされているとき、そこで約束された完璧な幸福は、自ら苦心惨憺の涯に掴み取った幸福のような確かな手応えを有していない。言い換えれば、葛城夫人は恩寵のような「宿命」に対する幼稚で驕慢な叛逆を試みたのである。如何なる愛情も、それが一切の障害や迂路を経由することなく、最初から完璧な状態で提供されている場合、我々はその切実な価値を理解することが出来ない。恋愛が恋愛として成立する為には、隔絶された距離という観念が不可欠なのである。尤も、三島は作品の掉尾で、そのような夫人の類型的なロマンティシズムを嘲弄するような、退屈な現実の断面を的確に挿入し、甘美な情熱的妄想に冷や水を浴びせ掛けることを忘れない。そのシニックな苦みが結果として、砂糖と酒精に塗れた素材の味わいをきりりと引き立てているのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)