サラダ坊主日記

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自壊する論理とニヒリズム 三島由紀夫「卵」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)を読んでいる。

 「卵」と題された短篇は、三島由紀夫の遺した作品の中では、異彩を放つ部類に属していると言えるだろう。こういう表現が適切であるかどうか分からないが、明らかに「卵」は作者の「余技」であり、そこには彼が生涯を費やして執拗な追究を重ねた重要な主題の旋律は反響していない。

 人間という生き物は怖ろしいほど「意味という病」(柄谷行人)に取り憑かれ、浸蝕された存在であるから、馬鹿げたナンセンス(nonsense)に直面しても猶、そこに秘められた暗示的な「意味」を見出そうと本能的に考え込んでしまう。どんな無意味な配列、どんな無意味な出来事の羅列、どんな無意味な悲劇、どんな無意味な偶然にさえ、我々の脳髄は死力を尽くして奇蹟のような物語を、恩寵のような暗喩を探し当てて、その手前勝手な努力の堆積で自分自身を説得してしまう。

 批評家の柄谷行人は『意味という病』(講談社文芸文庫)に収められた「マクベス論」の中で、キリスト教という西欧の重要で根源的な思想的秩序が宿している抜き難いオプティミズムに就いて語っている。地上の出来事の総てを超越的な道徳律と「天国と地獄」の彼岸へ結びつけることで、あらゆる事柄に潜在的な「意味」を見出そうとする西欧の精神が、如何なる理由もなく個人に襲い掛かる不条理な「悲劇」の観念を自動的に排斥してしまうこと、従って西欧において「悲劇」の成立は不可能であること、しかし、シェイクスピアはそうした西欧に固有の条件を反転させて「意味づけることの悲劇」を構築してみせたこと、柄谷行人はこうした主題に就いて明晰な筆鋒を躍動させ、乱舞させている。

 「意味という病」に取り憑かれている人間の実存的条件を知悉しているからこそ、三島もまた、巻末の解説に次のような註釈を加えておいたのだろう。

『卵』(昭和二八年六月号・群像増刊号)は、かつてただ一人の批評家にも読者にもみとめられたことのない作であるが、ポオのファルスを模したこの珍品は、私の偏愛の対象になっている。学生運動を裁く権力の諷刺と読まれることは自由であるが、私の狙いは諷刺を越えたノンセンスにあって、私の筆はめったにこういう「純粋なばからしさ」の高みにまで達することがない。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 p.283)

 「意味」というものは不可解な代物で、若しも我々の認識と思考が外界に対して如何なる「意味」も読み取ることが出来ないのならば、人間の理性という機能が備えている革命的な意義は消滅し、世界は平板で無機質な蠕動へ様変わりするだろう。宗教的なものの衰退は(或いは、その過剰な隆盛は)我々から巨大な「意味の天蓋」を奪い去り、あらゆる出来事を自動的に一つの巨大な物語の枠組みへ回収する、便利だが非常に抑圧的な機構からの解放を地上に齎す。けれども、人間は意味を求めずにはいられない生き物であり、その劇しい精神的飢渇が反動的な衝迫と化して、我々を政治における全体主義や、宗教における原理主義へ向かって駆り立て、束の間の自由を破滅させるのだ。

 「意味の欠如」としてのニヒリズムが、二十世紀の世界において猖獗を極めた重大な精神的疾病であり、それが結果として全体主義原理主義の過激な蔓延を齎したという歴史的事実を教訓とするならば、我々にとって新たな喫緊の課題は、意味と無意味との間を自在に往来する機敏で柔軟な知性の働きを学ぶことに存するだろう。ニヒリズムは単に我々の精神を絶望へ導き入れるばかりでなく、論理の脱臼としての諧謔を分泌する。「卵」のナンセンスな風合いを暗喩的な諷刺へ置換するのは、確かに作者の言う通り「読者の自由」であるが、それは結局のところ、諧謔に対する無理解と盲目を意味するばかりである。作者は壮麗な論理的体系を骨折させる為に、こうした奇態な諧謔を駆使しているのであり、しかし作者の諧謔が遂に彼自身の宿痾と思しき「夭折の論理」を解体するには至らなかったことを考慮すると、私は名状し難い荒寥たる心情に囚われてしまう。三島由紀夫という作家は「無意味」という観念に堪え難い嫌悪を懐いており、そのニヒリスティックな空洞を破壊する為に「夭折」のロマンティシズムを氾濫させるという古式床しき暴挙に及んだ。その善悪を論じるのは無益な話かも知れない。それが三島由紀夫という一個の偉大な文学者の、稀有な宿命であったと結論する以外に途はないのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)