サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「固有的共生」と「機能的共生」)

*愛情という言葉は、誰もが自然な道具のように容易く滑らかに使いこなしているように見えるし、誰もが共通の感覚を指し示し、分かち合う為に、頗る流暢な発音で「愛」という単語を選択しているように感じられるが、それが果たして誤解ではないと言えるだろうか。我々が「愛情」という使い古された、年季の入った単語で指差そうと試みているものは誰にとっても同一の心理的な、或いは肉体的な事象だろうか。

 「愛する」という言葉を幾ら弄んでも仕方ない。それは分かっている。言葉だけの論理的な操作で「愛情」という観念の内側に究明の光を届かせることなど出来ない。けれども、それは考えることの抛棄を促す為の但書ではないのだ。

 愛するということが、特定の相手に明瞭な好意を覚えることであると定義するならば、これほど繊弱で浮薄な営為は他に想定し得ないということになる。好意という具体的な感情は不安定な電圧のように些細なことが切っ掛けで幾らでも変動し得るし、好意だけを基礎に据えた人間関係は、好意の消滅と共に永久に切断されることになる。永遠に持続する好意、如何なる条件下でも完璧に機能し続ける頑丈な好意、それは実質的には好意というラベリングに値しない代物ではないか。そうした絶対的な好意は、相手の現実を冷静且つ客観的に把握することへの密かな峻拒を宿している。けれども、反対に厳格な審美眼を以て相手の実相を事細かに吟味し続けるとすれば、どんなに強烈な好意も生き永らえることは困難であろう。

 好意という浮薄な感情の端切れを「愛情」という観念の礎に充てるのは、愛情の短命な性質を容認することに帰結する。刹那的な恋愛ならば、好意だけを手懸りにして関係を持てばいい。好意が消えれば関係も消える、これは一般的な「恋愛」或いは「情愛」の基本的な規約である。だが、私が「愛情」という言葉を通じて考えたいのは、そうした凡庸な享楽のことではない。

 或る人間が、或る特定の相手を「本当に愛しているかどうか」を見究める為の基準は、如何なる要素によって構成されるべきだろうか。つまり「愛する」という営為の具体的な内実に就いて、我々は如何なる基準に依拠して答えを弾き出せば良いのか。

 感情だけを紐帯の原理に採用するならば、所謂「倦怠期」は直ちに関係の破綻を暗示する。倦怠と好意が相反する性質を備えていることは論を俟たない。倦怠期を乗り越えて関係を継続する為には、感情によって左右されない紐帯の原理が要る。

*結局のところ、愛情を証するものは「共生」の事実以外に存在しないのではないか。「共に生きる」という観念には、確かに惰性的な関係や形骸化した関係が包含される懸念が存する。けれども、愛することが相手の存在の全面的な肯定と承認を意味するのであれば(つまり「好意」を覚える「部分」だけを肯定することが愛情の未成熟な形態であるならば)、惰性や形骸化という現象さえも、愛情の領域の裡に包摂されることになるだろう。寧ろ、惰性や形骸化といった現象さえも意に介さず、いわばそれらの不本意な事態を超越して、関係を持続することこそ「愛情」の究極的な形態ではないかと思われる。従ってそうした関係は、外部の第三者の眼差しの許では、客観性を欠いた異様な「癒着」として定義されることになるかも知れない。合理的な観点に立てば、あらゆる問題を超越して継続される関係の形態は、悉く異常な不合理の塊として理解されるだろう。言い換えれば、或る男女(便宜的に「男女」という表現を用いるが、勿論同性であっても構わない)の永続的な関係が、何らかの合理的な基準によって導き出されることは有り得ないのである。愛情の盲目的な性質、不合理な性質、内在的な性質は、こうした関係性の構造に由来していると言える。

 だから、愛情という奇態な現象に関して、合理的な構造を期待するのは無益な願いである。惰性や形骸化の傾向を、愛情の「純粋性」に対する堕落した毀損であると非難するのは、愚かしい誹謗である。愛情という執着の源泉に、合理的な経緯を探し求めても脳髄が錯綜するだけなのだ。愛情の発祥、その隆盛と衰微の過程に就いて合理的な解釈を試みても、それが本質的な真実を穿つことは不可能に等しい。外在的な他者の眼差しが、愛情の紐帯の内訳を客観的に解き明かすことは難しい。

 「共生」という思想を合理化しようと企てること、つまり男女の性愛や家族の親密さに合理的な設計を試みること、それは一見すると如何にも尤もらしい建設的な発想であるように感じられる。家族という社会的な形態を合理化すること、その「聖域」めいた性質を解剖して客観性の光の下に眺めること、それは家族という紐帯に固有の様々な危険を解消する為の不可欠な施策であるように感じられるだろう。けれども、家族が完全に合理的な関係性へと置換されることは有り得ない。家族が完全に合理的である為には、そこに機能的な「交換可能性」の規約が導入されねばならない。故障した機械部品を直ちに交換するように、悪事を働いたり課せられた役目を果たせなかったりする成員を選別的に排除する原理が採用されねばならない。それは家族を「企業化」することと同義であろう。或る合理的で公正な基準に照らして、成員を流動化し、個人の実存的な固有性ではなく、飽く迄も機能的な互換性を重視すること、そうした経済的な公準を取り入れることが、家族の抱える様々な問題、その限界や不備を超克する為の確かな方策となる、という発想は、そもそも家族という社会的単位が古来内包し続けてきた不合理な性質への省察が欠けている。

*掛け替えのない存在、つまり、その機能や役目に関わらず、存在の固有性そのものを成員となる条件として認めること、主として性愛と血縁の原理に基づいて成員を構成すること、これが家族的な「共生」を支える原理であることは明白である。こうした「固有性の原理」は、そもそも家族的な共生の領域に限って見出されるものではない。問題は、こうした「固有性の原理」が、家族の存立を支えると同時に、家族の度し難い腐敗を喚起する要因ともなっているという、厄介な両義性の裡に存する。暴力的で酒浸りの父親は、社会的な役割に基づく「機能性の原理」から眺めれば、排除されるべき悪質な存在である。しかし「固有性の原理」は、相手の機能的な側面を論じない。相手が如何なる悪事に手を染めようとも、相手が相手である限りにおいて、つまり相手の「固有名」に関わる限りにおいて、関係の継続を選択するのが家族的な「共生」を支える根本的な原理であり、規則である。従って「固有的共生」の成立に関して、合理的な判断を用いることは無益であると言わざるを得ない。

*共同体の衰弱、個人的自由の拡大という世界的な傾向が、古色蒼然たる「固有的共生」の原理から、選択的な「機能的共生」の原理への移行を促し、力強く押し進めていることは一つの端的な事実である。この趨勢を覆すことは必ずしも容易な作業ではない。若しも「固有的共生」の原理が極限まで突き詰められたとすれば、我々は旧弊な身分制度に縛られ、家柄の論理に制約され、自由で主体的な判断の全面的な棄却を強いられることになるだろう。それは恐らく「結婚」という家族の基礎的な紐帯さえも殲滅してしまうに違いない。未婚率の増加は、単に性慾の衰退や育児に対する経済的不安といった統計的な傾向だけで説明されるものではないのだ。未婚率及び離婚件数の増加と、日本的な「終身雇用」の崩壊の根底には、同質の潮流が横たわっている。様々な種類の「ハラスメント」(harassment)に対する批判的な意識の高まりもまた、急速に進行しつつある「固有的共生」から「機能的共生」への遷移の反映であろうと思われる。