サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「共感」の倫理学・「創造」の美徳)

*私は小さい頃から「文章を書く」という営為に対して特別な関心を懐き、拙劣な小説や詩歌の類を書き散らしたり、訳の分からぬ断片的な独白の文章を有り触れたノートのページに刻み込んだりする、奇妙に情熱的な時間を夥しく積み重ねて生きてきた。三十三歳になった今もこうして、ブログという形式を借用して、誰の役にも立たない個人的な雑感や偏狭な意見を書き綴り、傍迷惑なことにそれを電子的なデータとして世間に公開するという不毛な活動に血道を上げている。

 一体、私は何の為にこんな奇態な情熱を飽きもせず燃やし続けているのだろうか? 長い間、私は小説家という職業に執拗な憧憬を持ち、時々は気分を変えて抒情的な詩人になりたいと、痛ましく法外な夢想に耽溺することもあった。けれども、私がインターネットの世界に公開した文学的作品が世人の熱い注視や惜しみない称讃の喝采を浴びる機会は遂に訪れず(稀に好意的なコメントを寄せてくれる神様のような方もいるが、それが少数派の意見であることは弁えている積りだ)、私自身の内部でも、小説や詩歌といった芸術的創造の営みに対する専ら個人的な熱意は、徐々に、着実に褪色しつつあるのが実情である。だから、読書感想文や雑記を著すことが日に日に多くなってきた。

 多種多様なSNSの爆発的普及に伴って、誰もが文章を書きたがる時代になったという言説に触れることがある。実際、一昔前ならば誰もが日常的にメールを送り合い、今ならLINEで画像やスタンプを交えながら、色々な言葉を電波に乗せて互いに届けることが極めて自然な風景と化している。けれども、ブログのように纏まった分量の文章を、何らの業務的な要請も必然性も伴わずに日々、自発的に書き続けているという人間は、やはりマイノリティなのではないかと感じる。そもそも、こうした習慣は万人が所有する必要のない、半ば依存症に類する営為であろう。

 私のブログは、所謂アフィリエイターたちの運営する専門的なブログとは異なり、収益を生み出す力は皆無に等しい。若しも会社の月給以外に些少の金銭を稼ぐことが目的ならば、近所のコンビニエンスストアでこっそり副業のアルバイトでもした方が効率的である。従って私のブログに対する意欲や熱意は経済的なものではないということが傍証される。それならば、何が目的なのか?

 共感や注目を集めることが目的なのかと問われれば、それも完全に妥当な答えではないと言わざるを得ないだろう。確かに共感を得られたり、注目を集めたりすることが出来れば、当座の瞬間は、或る程度の心理的な充足を覚えることが出来る。少なくとも、自分の文章を完全に黙殺されるよりは、たとえ批判であっても、何らかの関心を寄せられた方が悦ばしいに決まっている。けれども、それで完全な幸福に到達し得るかと問われれば、返答は否である。

 きっと私は贅沢な苦悩に蝕まれているのだろう。一知半解の共感では、充たされぬ部分を抱えているのだ。自分の記事に寄せられたコメントの類を読んでも、果たしてこの人は本当に私の言いたいことを理解してくれたのだろうかと、疑念に苛まれることが珍しくない。固より赤の他人に向かって完璧な理解を期待する方が愚かなのだが、私は多分、他人の意見に余り興味がないのである。それよりも自分が今、夢中になって考えていることの正体を突き止めたいだけで、若しも自分と同じ主題に夢中になって考えている人に遭遇したら、私は生半可な共感や称讃の言葉を浴びるより、遥かに劇的な歓喜に囚われることになるだろう。言い換えれば、私は理解者よりも伴走者の存在を密かに求めているのである。

 私は、自分の理解していなかった視点をあっさりと、涼しい顔つきで提示して来るような人に惹かれることが多い。自分の想いを無条件に受け容れて肯定してくれる人よりも、異なる切り口や新鮮な刺激を与えてくれる人の方がいい。その方が、退屈しなくて済むのである。教祖と信者のような非対称的関係を、私は軽蔑する。こうした感慨は、私の議論を好む性質の表れかも知れない。自分の既に知悉している世界を単純に肯定されるよりも、知らない世界を切り拓いてくれる人に私は魅了される。こうした性格は、職人的な性質の対極に位置するものかも知れない。自分の基準で作り上げた個人的な世界を只管丁寧に磨き上げて、洗煉の度合を高めていくという風な生き方は、私の手に余る境涯である。その自足した洗煉の備えている奇態な孤独の幸福に、きっと私は疲弊してしまう。寧ろ私は、個人的な世界に亀裂を走らせる稲妻のような衝撃に魅惑されがちなのだ。

 自分が「良い」と思う作品を黙って試行錯誤しながら作り続けること、これこそ小説家に限らず「創造的な仕事」に携わる人々が信奉すべき最も基礎的な美徳であろう。他人の意見や異質な世界に振り回されるのではなく、自分の掲げた最も個人的な規矩の数々を熱心に庇護し続けること、そこに小さな幸福の徴を見出すことが出来なければ、長大な小説を何年も書き続けるといった「制作の孤独」に安住することは難しい。創造という偉大な営為には充実した沈黙の介在が不可欠である。そして「創造」に携わる人々にとっては、半可通の批判よりも落ち着いた個人的な「共感」の言辞の方が遥かに有難く、貴重な宝珠のように美しく感じられるのではなかろうか?