サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(愛情と触知)

*人間は時々、自分が「動物」であることを忘れる。

 或いは常に忘れて、稀薄な自覚の裡に眠りこけているのかも知れない。一般に誰も切り花を見たところで生命の残虐な形態に心を痛めたりはしないが、人間の生首を鼻先に突きつけられたら、余りの惨さに恐懼して卒倒してしまうだろう。愛犬家や愛猫家は、長く可愛がってきた飼犬や飼猫の命の重さを人命と同等に感じるだろうが、飼い主がいなくて保健所に送致された動物が殺処分になることの惨たらしさに、動物を飼育する習慣を持たない人々は余り関心を寄せない。そこには所謂「ヒューマニズム」(humanism)が、つまり「人間中心主義」が浸透しているのだと言える。人間が動物とは異質な存在であるという認識は、特段に不合理な考え方であるとは看做されていない。

 けれども、人間は動物である。聊か変態的で異常な特徴を備えているが、動物の一種であることは間違いのない事実だ。しかし、言語や知性や精細な記憶や奔放な想像力といった様々な要素を符牒として、我々は人間をあらゆる存在から引き離し、特権的な範疇に組み入れて、滅多に峻厳な識別を怠ることがない。それらの様々な人間的特徴が重なり合って形成される「精神」の重要性を声高に擁護する余り、我々は自身の動物的な要素に就いて、不当に低い評価と杜撰な認識を持つことを選びがちである。

 「動物じゃあるまいし」という言い方、或いは「けだもののような」という言い方は、明快に厳しい非難と糾弾の意味を含んで用いられる。人間を「動物」呼ばわりすることは一般的に「罵倒」や「誹謗」の手段として定義されている。つまり、人間にとって己の動物的な部分を直視したり承認したりすることは屈辱的な含意を帯びた営為なのである。だが、人間が動物的であることは本当に恥ずべき罪悪なのだろうか?

*「愛する」という言葉は一般に崇高で、抽象的な美しさを備えていると看做されている。無私の心、献身と犠牲、報酬を求めない清廉さ、そういったものが「愛」の本質であると、気高い人々は清らかな顔で説法する。そして「肉慾」は「愛」の贋物であり、真実の「愛」は「肉慾」と無関係に存在し、機能するかのように物語る。けれども、そうした崇高な教理は、人間の原始的(primitive)な側面に対する意識的な黙殺の上に樹立されているのではないか? 「愛する」という営為の定義に関して、世上には夥しい騒然たる議論が無限に氾濫している。誰もが抽象的で曖昧な言葉を交わし合う。恋愛の深淵に苦しむ人々は、例えば「執着」と「愛情」との倫理的な区別に就いて学ぶ。その区別が無意味な指標だと言いたい訳ではない。ただ、その根底に横たわっている最も原始的な所作への視線の貧しさが、愛情の倒壊する根源的な「危機」を惹起するのではないかと思うのだ。幾ら言葉で「愛情」を定義し、その正しく健全な様態を焙り出してみても、清廉な御題目を羅列してみせても、我々が内なる「動物性」を軽んじ続ける限り、そんなものは幻想的な寓話の範疇を出ない。

*「愛する」ことの本質には「触れる」という行為が存在し、鎮座しているのではないか? 互いに分離された別々の個体が、様々な手続きと交渉を踏み越え、秘められた領域へ歩み寄り、厳重な隔壁を特例的に解除して、互いの存在そのものに「触れる」こと、触れて互いの実在を確かめ合うこと、その肉体的な実感以外に「愛情」という崇高な理念を基礎付ける材料は考えられないのではないか。触れることは、愛情の最も本質的な要約であり、最も雄弁な告白ではないのか?