サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 1

 最近は専らセネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読んでいる。丁寧で稠密な訳文を少しずつ咬み締めるように堪能している。勿論、私にはラテン語の原文を読解する能力など微塵もなく、従って訳文の適切性を原文に徴して確かめることなど不可能である。しかし、日本語の訳文そのものの行き届いた丁寧な律動は感じ取ることが出来る。

 余りに洗練された達意の訳文が、或いはそのような幸福な誤解を喚起するのかも知れないが、岩波文庫の小さな印字の羅列から匂い立つ古代ローマの哲人の息吹は、二十一世紀の極東の島国が抱える様々な問題や混乱に就いても、驚嘆すべき現代的な示唆や教訓を読者に授けてくれる。それはセネカの粘り強い思索が、軽率な偏見を離れて徹底的に練り上げられていることの結果であるとも言えるし、同時に数千年の星霜を閲した後も、我々人類の患っている種々の病が一向に進歩も退潮もしていないことの反映であると言い得るかも知れない。

 数千年の歳月、その間に人類の生活は、少なくとも物理的な次元、社会的な次元においては凄まじい変貌を遂げた。これは端的で素朴な事実であり、それ自体を否定することは誰にも出来ない。だが、そうした変化は専ら人間の外部で起きた技術的な変容であり、環境の変化、人間の実存を拘束する条件の変化である。つまり、人間という生物そのものの構造は必ずしも変化していない。古代エジプトの遺産であるパピルスに当時の労働者の愚痴が書かれていた、などという出典の定かならぬ風説は、こうした消息を象徴する挿話であると言えよう。時代が移ろい、社会を構成する制度や自然の物理的な環境が変化したとしても、人間の実存の根本的な条件は変わらない。数千年の歳月が、不老不死の生命を下賜してくれる訳でもなく、大空を飛翔するイカロス(Icarus)の翼を我々の肩胛骨の辺りに植え付けてくれる訳でもない。

 言い換えれば、我々人間の実存を制約する根本的な条件にとっては、数千年の星霜は一瞬の霹靂に過ぎず、従って現代人の苦悩も古代人の苦悩も、内容や実質は異なっても、その形式においては概ね共通しているのである。現代の最新の発見と思われることも、数千年前に散逸した古代の賢者の巻物の片隅に、既に書き込まれていた省察と同義かも知れない。我々は何千年もの間、ずっと同じ場所に留まって同じ悪夢に苦しみ、同じ希望に恋焦がれてきたのである。

 われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほどつましい財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然とととのえる者には大きく広がるものなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.12)

 「生の短さについて」と題された一篇の著作には、セネカの抱懐する実践的で倫理的な時間論が明快な文体を以て象嵌されている。そこには「生存」と「存在」との間に倫理的な弁別の垣根を設置しようとする意識が含まれている。換言すれば、セネカの時間論は決して「時間」という観念的な形式そのものに関する抽象的な思弁ではなく、絶えず実存的な課題との間に緊密な結びつきを備えた、具体的な思索の結晶した姿なのである。

 人間には限られた時間を「浪費」したり「蕩尽」したりする能力が備わっている。それによって人生という有限の時間は一層縮約され、人間は唐突に襲い掛かる「老年」の孤独と絶望に打ちのめされる。「生きた」のではなく「存在した」に過ぎないという痛切な後悔の念が、末期を迎えた人間の魂を取り囲み、致命的な打撃を食らわせる。こうした発想は、生存という一つの素朴で基礎的な事実に何らかの「意味」を担わせようとする思考の形式に基づいている。言い換えれば、そこには人間の行為や態度に関する倫理的な弁別の意識が関与しているのである。

 人生の時間を、無意味に流れ去る単純な「時間」ではなく、充実した実存的な「時間」に切り替える為の、倫理的な分水嶺とは何か。その問いに対するセネカの回答は、少なくとも「生の短さについて」と題されたテクストに限って言えば、限られた時間を「他者に奪われないように努める」というものである。別の表現を用いれば「忙殺」を免かれるように工夫し、配慮するということだ。セネカは繰り返し、金銭や財産に就いては非常に吝嗇な人間が、最も限られた貴重な「資産」である筈の「時間」に就いては底抜けの浪費家として振舞うことが多いという経験的な観察への唖然たる驚愕を語っている。

 では、その(生の浪費の)原因はどこにあるのであろう。誰もが永遠に生き続けると思って生き、己のはかなさが脳裏をよぎることもなく、すでにどれほど多くの時間が過ぎ去ってしまったか、気にもとめないからである。誰かのために、あるいは何かのために費やされるまさにその日が、あるいは最後の日となるかもしれない状況の中で、あたかも満ち満ちてあり余るほどあるかのごとく生を浪費するからである。人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。多くの人間がこう語るのを耳にするであろう、「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。事が自分の割り振りどおりに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.17-18)

 生の蕩尽や浪費の背景には、生が有限であることへの実感的な理解の欠如が横たわっている。従って賢者は自分の時間に就いて吝嗇に振舞うべきであり、他人の事情に容喙して徒に貴重な時間を空費することを自戒すべきである。こうした尤もらしい道徳的な訓誡は必ずしも人々の心を掌握しないかも知れない。社会的な義務や奉仕によって貴重な「自分の時間」を略取されることへの警戒と嫌悪も、余人の眼には聊か冷淡な厭世家の相貌として映じるかも知れない。だが、そのような性急な断定に傾くのは迂闊な判断であろう。セネカの思想は通俗的な「付和雷同」の精神、或いは「共依存」の精神に対する解毒剤の効能を有しているのではないかと思われる。換言すれば、彼の思想にはヨーロッパ的な個人主義の基礎的な原質が含まれているのだ。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)