サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「婚姻」の改革)

 「婚姻」という制度を「離婚」という破局(如何なる正当な事由が介在していようとも、論理的に考えれば「離婚」が「婚姻」の失敗した形態であることは明白である)から救済する為には、「婚姻」に附随する様々な有形無形の義務を削減する以外に途はない。

 「婚姻」を「愛」や「幸福」と無条件に接合し、一体的な秩序として取り扱うのは世界的に浸透した考え方であるが、それが半ば宗教的なイデオロギーであることに、我々はもっと明晰な注視を傾けるべきである。「婚姻」は一つの社会的制度であり、「愛」は崇高な感情であり、「幸福」は欲望の断念或いは抑制である。これらの要素は必ずしも相互に緊密な関係や必然性で結び付いている訳ではない。若しも、これらの三位一体が不可避的な現象であるならば、現に「不幸な婚姻」や「愛のない婚姻」が存在する事実を説明出来ない。

 そもそも「婚姻」とは何か、という問題が我々の眼前には立ち開かっている。個人の間で営まれる性愛的な関係そのものが「婚姻」と同じ実質を備えていたとしても、直ちにそれが「婚姻」という観念に値するという訳ではない。単なる恋愛関係が「婚姻」の地位を得る為には、それが社会の定めた規範に則って公式に是認されねばならない。言い換えれば、社会が「夫婦」として認可した関係は総て強制的に「婚姻」の範疇へ移管されるのである。

 従って「婚姻」の具体的な定義に就いては、当人の所属する社会の要請や規範が専ら決定権を有しているということになる。「婚姻」の目的は固より、それが成立していると看做されるのに必要な諸条件は、その制度を決定し運用する社会の性質に左右されるのである。例えば日本の民法は「婚姻の効力」として「夫婦同氏」「同居・協力・扶助の義務」「貞操義務」「成年の擬制」などを明文化している。換言すれば、これらの「婚姻の効力」に対して同意し得ない人間は、日本という社会において「結婚」という法律的手段を選択することが出来ない。

 社会的な合意、或いは社会的な理想や正義と、実際に社会が置かれている状況、その急激な変貌の過程との間には、多かれ少なかれ誤差が生じる。社会的に規定された「婚姻」の定義と、個人の有している「婚姻」の主観的な定義との間には、常に乖離の生じる懸念がある。「同性婚」や「選択的夫婦別姓」などの問題は、こうした乖離に附随する葛藤の具体的な表象である。

 両者の葛藤、つまり「婚姻」の定義(理念)と現実との乖離が増大すればするほど、婚姻の破綻する確率も、婚姻そのものの成立しない割合も上昇していくこととなる。昨今の離婚件数の増加、未婚率の上昇といった統計的現象は、正にこうした乖離と葛藤の深刻化を示す明瞭な徴候であると言える。

 婚姻に関する法律的な規定が、社会的な構造の実情や、国民の価値観との間に良好な融和的関係を有している場合には、離婚件数は抑制されるであろうし、非婚という選択肢を採択する人数も減少するだろう。個人の私生活における一般的な方針や理念と、婚姻の社会的定義との幸福な合致は、かつての日本がそうであったように「皆婚」という奇蹟的な情況を現出させるだろう。

 そもそも「婚姻」の件数を増やし、尚且つ「離婚」という破局を回避することが如何なる目的や理念に資するのか、という根源的な問題に就いて、我々の思索は充分に行き届いていないのではないかと思う。「結婚することが必ずしも幸福を意味する訳ではない」という認識は徐々に一般化しつつあるが、そのような命題の背景に「現状の婚姻制度が個人の幸福と対立する要素を増大させつつある」という認識が存在するのならば、問題は「婚姻か、非婚か」という二者択一の優劣を論じることに集約されるのではなく、そもそも「幸福な婚姻」を成立させる為には如何なる制度設計の変更が必要か、という観点が、議論の主要な基軸として承認されねばならない。

 「婚姻」を「幸福」の手段として定義することに我々が固執するならば、我々の生活の現実、社会の置かれている具体的な実情と乖離した「婚姻」の制度は改革されねばならない。時代的な情況の変貌に即応して制度の更新や改廃を推進するのは、何ら不合理な営為でも、破滅的な選択でもない。伝統の侮辱を意味するものでもない。また「婚姻」と「生殖」を直結させる従来のイデオロギーも見直しの対象となるべきである。児童虐待の問題、つまり子供を適切に養育する資質や能力を欠いた人間が、親権や監護権を主張して第三者の介入を拒みながら、被保護者たる子供を虐待し、場合によっては殺害してしまうという社会的惨劇の背景には、所謂「家庭」の構造の歪みが確実に影響を及ぼしている。育てることが出来ずに産んだ子供を殺害してしまうという悲惨な事例に眼を向けるならば、今後の我々の社会は「出産」と「養育」を一体的に捉えて運用する従来の「家庭」の制度設計にも改訂を加えねばならないだろう。そうであるならば「血縁」に基づいて設計される「家庭」という旧来の基礎的な理念は一旦、否認される必要がある。それは「出産」と「養育」の責任を個々の「家庭」に委任するという既存の価値観の重要な変更を意味している。

 「婚姻」の必須の条件から「出産」と「養育」を除外すれば、恐らく現状では根強い反発と逆風の為に封じられている「同性婚」の問題も、血縁に基づいて構築された「家庭」を社会の基礎的な単位として定めている為に遅々として進捗せずにいる「選択的夫婦別姓」の問題も、解決に向けて大きく前進するのではないだろうか。「里親」制度の拡大も、児童虐待の問題を解決する上では不可避の取り組みであると考えられるが、従来の「血縁」という理念が、その推進に対する障碍や抑圧の効果を発揮している現状は否み難い。つまり、我々は「婚姻」に纏わる夥しい数の偏見や先入観を根本から訂正しなければならない社会的状況を迎えているのである。換言すれば、こうした改革の手続きを粛々と進めない限り、百年後には総ての国民が独身であるような社会が完成することになるだろう。