サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 4

 引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。

 欲望は絶えず「欠如」の認識によって触発され、飢渇に導かれて亢進する。言い換えれば、享楽的な主体は常に自らの所有しない対象、不在の対象、欠如した対象に向かって認識の焦点を合わせている。未だ手に入らないものを求める気持ちが欲望という心理的現象の構造なのだから、享楽的な主体が「欠如」に対して莫大な関心を支払うのは当然の理窟である。

 一方の幸福は、そのような「欠如」への視線を意識的に抑制することで成立するものであり、既に存在しているものへの「慈愛」を自らの倫理の根幹に据えている。事物の欠性的な側面に着目するより、現に存在しているものへ主要な倫理的関心を寄せる方が、欲望に攪乱される危険が相対的に減少するので望ましい、と考えるのが「幸福」の基礎的な方針である。

 だが、我々の内なる享楽性は、既に存在し、手許に潤沢に与えられているものの価値に感謝の念を捧げることよりも、未だ手に入らないものを獲得して、更に己の持ち分を増殖させること、その増殖に附随する「歓喜」の経験に深甚な執着を示すのが通弊である。こうした「増殖」への欲望は、現状と想定される未来との相対的な較差に基づいて喚起されるので、原理的に最終的な「満足」を得る見込みを欠いている。言い換えれば、我々は想定される可能的な未来との較差という形で絶えず自ら「欠如」を形成し、その欠如を埋めることで歓喜を堪能するという無限の循環の裡に幽閉されているのである。自ら欠如を生み出し、自らそれを補填することで快楽を享受するという欲望の原理(これは資本主義の構造そのものではないだろうか?)は、我々の実存に対して片時も休止を許さない。欠如を生み出し、欠如を遠方に設定し、彼我の較差を埋める過程そのものに快楽を発見する欲望の運動は、休止によって死滅するからである。それは享楽的な主体にとっては実質的に「死」を意味している。或いは「涅槃」(nirvana)と呼び換えてもいい。

 だが、冷静に考えてみれば、このような欲望の原理は奇態な機構ではないだろうか? 態々平地に波乱を起こすように、熟睡している赤児を揺さ振って覚醒させるように、欲望は或る純然たる充足の境地を自ら破砕して、現状に対する「不満」を死霊の如く召喚する。そして自ら喚起した飢渇に苛まれ、駆り立てられて、欲望を鎮静する為の夥しい労役に挺身するのである。その過程で得られる「歓喜」の強烈な記憶が、反復への衝動を無限に再生産し続ける。

 恐らくセネカが批判しているのは、こうした欲望の原理であり、享楽的な実存の形式である。欲望の原理は「静謐」という倫理的な美徳に正面から背馳する。そして退屈な日常に亀裂を走らせ、混乱を作り出すことに剣呑な野心を燃え上がらせる。既に存在するものに満足せず、現在の環境に意識を集中することも、眼前の責務に専念することも拒んで、絶えず関心の羅針盤を浮遊させ、様々な外在的表象に操られ、首尾一貫した計画や方針や理念を持たず、欲望の充足という目標に実存の総体を支配されること、こうした生き方を、セネカは「不精な多忙」と呼んで指弾したのである。

 「しかし、精神も快楽を覚えるはずだ」、そう言う人もいる。いかにも、精神にも快楽を覚えさせ、奢侈と快楽の審判人の席につかせるがよいのである。精神をしてみずからを、感覚に喜びを与えるのが常であるありとあらゆる快楽で満たさせ、さらには過去を回想させ、過ぎ去った快楽を思い浮かべてはかつての快楽に酔いしれさせ、さらに将来の快楽を今や遅しと待望させ、次から次へと続く期待に胸ふくらまさせ、肉体が栄養満点の餌に満腹して寝そべりながら今という時を過ごしているあいだ、来るべき未来の快楽に思いを馳せさせるがよいのである。その精神は私にはなおさら不幸に思えるだろう。なぜなら、善きものの代わりに悪しきものを選ぶのは狂気の沙汰だからである。(精神の)健全さがなければ誰も幸福ではなく、いまだ来らざる未然のものを最高善とみなし、それを追い求める者は誰も健全ではない。したがって、幸福な人とは判断の正しい人のことなのである。幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今あるみずからの所有物を愛している、みずからの所有物の友である人のことなのである。幸福な人とは、理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、みずからが関わる物事のあり方を受け入れる人のことなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.144-145)

 セネカの定義する「幸福な人」は、明らかに享楽的な主体の対極に位置付けられている。「幸福」は「存在しないものを追求する」という欲望の原理からは決して析出されない。欲望の原理は寧ろ「幸福への自足」を否認することで駆動し始める。換言すれば、欲望の動力源となる主要な養分は人間の「不幸」なのである。我々が欲望の目指す「享楽」の経験へ到達する為には必ず「不幸」という淵源を作り出さねばならない。それが人類の革命的な進化を支える基礎的な原理であることは確かに明瞭な事実である。だが、進化や成長が必ず我々の「幸福」に寄与すると断定し得る絶対的な根拠は存在しない。

 生理的な「欲求」は完全に満たされることが出来る。空腹という身体的状況は食事という手段によって物理的に解消され得る。だが、例えば「美味しいものを食べたい」という享楽的で審美的な欲望には、完全な充足など有り得ない。何故なら、欲望は常に可能的な未来との関連性を備えているからだ。恐らく我々の欲望の肥大は「記憶」の発達によって促進されている。過去の記憶の蓄積、そこから類推される可能的な未来図、こうした要素が我々を眼前の現実から遊離させ、無限の享楽へ通じる危険な扉を開放しているのである。

 極論を言えば、幸福であるということは原始的な動物性への回帰を含意しているのではないか? 過去に囚われず、未来に煩わされず、眼前の現実に満足すること、そのような自足の境涯を維持すること、それは人間を荒々しく衝き動かす様々な欲望を全面的に否認することである。

 いや、性急な結論に縋るのは控えるのが賢明であろう。セネカも、欲望の根源的な廃絶を提唱している訳ではない。

 さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。ただし、すべてのものは、外見は種々の様相を見せはするものの、内実は等しく虚しいものであり、よしないものであることを知っておかねばならない。(『生の短さについて』岩波文庫 p.104)

 欲望が記憶や想像といった人間の大切な精神的機能と分かち難く緊密に結び付いたものである以上、我々は悪しき欲望の原理と完全に絶縁することは出来ない。だが、そもそも総ての欲望が常に放縦な「享楽」の経験と癒合している訳ではない。つまり、総ての欲望が「幸福」に背馳するという理由だけで自動的に「邪悪」の範疇へ移管される訳ではないのである。

 単に「欠如」そのものを認識し得ないのならば、それは確かに一つの幸福だが、動物的な幸福に過ぎないと批難することも可能だろう。満足は獣でも好むと、かつて坂口安吾は自伝的な小説の一隅に書きつけた。「存在しないものを認識する」という人間の革命的な能力は、無際限な享楽の濫觴であると同時に、人間を動物から類別する重要な指標でもある。「欠如」を認識しながら、敢えて「自足」に留まろうと努める倫理的な苦闘が、セネカの縷説する「徳」の形成に最も本質的な貢献を捧げるのではないだろうか。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)