サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 5

 セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読了した。

 二千年前の著述が未だに「生」の現実に対する有効性を失っていない。その厳然たる事実に私は驚嘆せざるを得なかった。セネカ古代ローマの激動の時代を生き抜いた有能な政治家であり、その生涯を苛み続けた波瀾の凄まじさは名状し難いものである。つまり、平成末期の極東の島国に暮らす凡庸な会社員である私と、セネカとの間には、特筆すべき如何なる類縁性も存在していない。しかし、セネカの書き遺した粘り強い思索の航跡は、雑事に埋もれ、忙しない日々を歩んでいる私の胸底に夥しい豊饒な示唆を投じてくれた。

 セネカの書き遺した哲学的な思索の燦爛たる輝きと、彼自身が過ごした血腥い政治的闘争の日々との矛盾に着目し、言行の不一致を咎める声は、彼の生前から(つまり二千年前から!)存在していたようだ。確かに彼は「閑暇の生」を称揚し、社会の齎す種々の繁忙に巻き込まれる境涯を厳しい筆致で断罪している。しかし彼自身は隠遁や厭世から程遠く、寧ろローマの皇帝を輔弼する卓越した貴顕の人物であった。その矛盾を、他人から問責されるよりも先に、セネカ自身が明瞭に自覚していたことは疑いを容れない。

 「哲学者は言っていることを実践しない」。だが、現に哲学者は言っていることの多くを実践し、その誠実な心に抱いたことの多くを実践している。なるほど、彼らの言葉と行動が完全に一致するに越したことはない。彼らにとって、それ以上に幸福なことがあろうか。とはいえ、それでも、彼らの善き言葉や、善き思想に満ちた心根を軽蔑してよい理由はないのである。健全さをもたらす学問研究は、たとえ成果が得られなくとも、賞讃すべきものなのだ。険峻な山に挑んだ者が頂きに到達できないとしても、何の不思議があろう。少なくとも君が立派な男子なら、壮図に敢然と挑む者を、たとえ彼が志半ばで挫折しようとも、敬意のまなざしをもって見上げるがよい。みずからの(後天的な)力ではなく、みずからの本然の力を恃んで高邁な企てに挑むこと、きわめて勇敢な精神に恵まれた人でさえ果たしえないほどの壮図を心に期することは、高貴な人にして初めてなしうる業なのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.172-173)

 理想と現実との間には必ず乖離がある。寧ろ、理想は現実との乖離を自らの定義として内包していなければならない。現実と密着し、埋没した理想は、理想ではなく一つの追認である。だから、理想と現実との隔たりを理由に、理想の無効を論うのは無益な振舞いである。同時に、理想を一足飛びに実現しようと焦躁に駆られるのも愚挙の一種だ。簡単に達成される理想は、理想の称号に値しない。

 セネカは享楽的な実存の形式を批判し、自己に立ち返ることの重要性を繰り返し強調した。他人に振り回されたり、欲望の虜囚と化したりすることを厳しく戒めた。それは彼自身が他人の思惑や目紛しく移り変わる欲望の渦中で日々を過ごしていた事実と矛盾するだろうか? その矛盾は彼の欺瞞を証明する根拠以外の意義を持たないのだろうか? 彼は理想に就いて語り、理想と現実との距離を常に弁えていた筈である。

 君は言う、「お前は、言っていることと現実の生き方が違うではないか」と。誰よりも悪意に満ちた者たちよ、優れた人間を見れば誰彼なしに誰よりも敵意をあらわにする者たちよ、その非難はプラトーンに投げかけられ、エピクーロスに投げかけられ、ゼーノーンに投げかけられた。それも故なしとしない。彼らが語っていたのは、自分がどう生きているかという問題ではなく、自分がどう生きるべきかという問題だったからである。私が語っているのも、徳についてであって、私自身についてではないし、私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.169)

 こうしたセネカの言葉を、狡猾な弁明に過ぎないと看做して軽侮し、排斥してしまえば、それで議論は終わってしまう。だが、他者の排撃と断罪が我々の成長を促すことがあろうか? そもそも、人間的な成長とは一回限りの悟達のようなものではなく、絶えず反復的に争われる永久的な苦闘の累積である。一旦辿り着けば、二度と滑落する虞のない安全な境涯が「賢者の幸福」であるという訳ではない。禅宗においても、悟達は幾度も反復されるものであり、尚且つ悟達の裡に逼塞することは戒められる。「閑暇の生」は他人を排斥するものではない。他者の思惑に攪乱されない自己を形成することは、世界から「他者」という名の異物を放逐する為の企図ではない。

 欲望が常に「欠如」を欲する衝動であることに就いては既に述べた。そして「幸福」が既に存在するものへの自足によって齎される精神的状態であることに就いても先述した。それが動物的な自閉性、つまり他者の存在を消去することによって得られる閉鎖的な幸福なのではないかという懸念に関しては、セネカの次のような言葉を引いて報いるべきだろう。

 ある種の自由さをもって論じ始めたのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である、と。なぜなら、木石にも恐れや悲しみの感情はなく、家畜もまた同様だからである。だからといって、幸福が何であるかの理解が欠如しているものを幸福なものとは誰も呼ばないであろう。愚鈍になった本性と、己に対する無知のせいで家畜や獣の部類に身を落とした者たちは、そうした木石禽獣と同類とみなすべきなのである。そのような人間と木石禽獣のあいだには何の相違もない。なぜなら、木石禽獣には理性というものがいっさいなく、そのような人間にあるのは、己の災いを招く、邪悪さに長けた歪んだ理性だからである。実際、真理の埒外に放り出された人間は誰一人幸福な人とは呼べない。したがって、幸福な生とは、正しく確かな判断の上に築かれた、安定的で不変の生のことなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.143)

 これらの経緯は、坂口安吾の言葉を借りれば「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」(『風と光と二十の私と』)と表現すべき消息であろう。人間は単に動物的な「幸福」の裡へ逼塞すべきものではない。少なくともセネカの考えている「徳」の内実は「木石禽獣」の幸福に身を委ねることを意味しないだろう。重要なのは、世界に関する正しい認識、即ち「真理」を得ることなのである。これは何も怪しげな新興宗教の勧誘の文句ではない。世界の構造と秩序を精密に理解することへの絶えざる理性的努力は、或る固定的で恣意的な結論によって世界の秘密を解決したかのように振舞う「邪宗」の論理の対極に位置している。真理の把握、ただそれだけが、無際限な享楽に堕落することのない本質的な愉悦を、我々の精神に授与するのである。快楽は固より、幸福でさえも人間的な希求の最終的な目標ではない。我々の情熱は只管に、真理への到達に向かって捧げられるべきなのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)