サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 2

 引き続き、バートランド・ラッセルの『幸福論』(岩波文庫)に就いて書く。

 人間が「幸福」という茫洋たる観念に就いて明瞭な視界を確保したいと望む場合、差し当たってラッセルの書物に含まれている記述を悉く点検すれば、その要求は見事に叶えられるのではないかと思う。無論、人生において最も重要な点は、正しい知識を死蔵から救うことであり、知性の溌溂たる活動を極力保持することであるから、この魅惑的な書物に耽溺するだけで幸福な境涯を獲得し得る訳ではない。けれども、彼是と怪しげな教義を渉猟して血迷ったり、他人の無責任な助言に振り回されたりするくらいなら、先ずラッセルの「幸福論」を徹底的に精読した方が遥かに賢明な選択であろうと私は考える。

 ラッセルは「不幸」と「幸福」の原因及び構造に就いて、随時具体的な事例を引きながら明快な分析を縦横無尽に試みている。彼は不幸な人間の典型として三つの種族を挙げている。「罪悪感に囚われた人々」「虚栄心に塗れた人々」「権力に飢えた人々」の三種がそれである。これらの不幸な人々に共通して言えることは、他者との社会的諧和の支障である。罪悪、虚栄、権力の三つの要素は、何れも他者との対等な関係性を歪める働きを有している。

 虚栄心は、他者からの賞讃を劇しく求める心理的衝動であり、実質を欠いた表層的な虚飾で自己の外貌を彩ることに血道を上げる。これは他者に対する悪意に由来するというよりも、自己自身の価値に関する根本的な疑義に淵源を持つ現象だと言えるだろう。自身の実存に就いて確固たる方針を持たず、何を以て人生の歓びと看做すかの私的な定義を堅持し得ない為に、価値判断の尺度を他人の掌中に委ねてしまうことが、虚栄心を培養する最も基礎的な要因である。

 虚栄心に蝕まれた人間は、他者からの賞讃を通じて自己の価値を確認するという迂遠な回路を内蔵している。言い換えれば、他者からの賞讃が得られない場合には、彼らは自己の価値を確認する手段を失い、絶望と倦怠の暗闇へ転落することとなる。もっと言えば、彼らにとっては他者からの拍手喝采だけが至高の歓喜であり、それが得られない状況は直ちに堪え難い精神的窮乏を呼び覚ますのである。

 一般に人生における種々の快楽と歓喜は、自己の内部で確かめられるべき主観的経験である。しかし、虚栄心に蝕まれた人間は、自己完結的な歓喜を信用し、積極的に肯定する為に必要な心理的条件を欠いている。彼らは自己の内在的な感覚に自足し、安住する力を持たない。自己の内在的な感覚に対する絶えざる懐疑、これが虚栄心の根源的な培地である。こうした懐疑が、彼らを心理的な安定性から放逐し、外在的な基準に基づいて自己の正当性を立証しようと試みる迂遠な努力の泥濘へ幽閉するのである。

 自己の主観的事実に対する懐疑、それは一見すると倫理的な知性の象徴のように思われる。主観的事実に耽溺して外部の視線を意識しなくなることは、知的な怠慢の最も典型的な症状である。従って、こうした懐疑を虚栄心という悪徳の濫觴と看做すことに就いては、批判的な見解が集まるかも知れない。

 だが、こうした懐疑、自分自身に対する懐疑、自己否定的な懐疑を、誠実な知性の証明として称揚することは、必ずしも健全な事態に帰結しない。自己否定的な懐疑が懸念しているのは、自分の感覚や信条は事実を適切に反映していないのではないか、という問題である。無論、そのような疑念自体に罪がある訳ではない。現実に対する精確な理解を求める過程で、このような疑念に幾度も囚われることは探究の健全性を示す指標に他ならない。

 しかしながら、こうした自己否定的な懐疑は、厳密な真理は必ず自分以外の誰かが握っていると看做す不合理な信仰に基づいていることを閑却すべきではない。絶対的な真理が外部に存在し、我々は徐々に自己の迷妄を払い除けて、その外在的な真理への到達を図らねばならない、という半ば宗教的な信憑は、いわば「被保護者の論理」である。自力で物事の善悪を弁別する力を持たない幼児が信奉する類の道徳的規矩である。

 我々は「真理」を探究せねばならないが、それは既に確立された完璧に精密な事実の体系を無条件に受け容れて吸収することを意味しない。若しも既に完璧な真理が確立されているのならば、確かに我々は真理への従属以外に如何なる使命も責務も持たないということになる。実際、そのように信じ込んでいる人間は無数に実在する。幼児は親の見解を、この世界の揺るぎない「真理」であると極めて素朴に信じ込む。或いは、教師や上司や公務員や、様々な「目上」の人間の発言をそのまま「真理」として受け容れる若者も少なくない。

 だが、我々の認識能力が真理そのものに「到達」することなど不可能であると考えるべきではないだろうか。確かに我々の知性的な努力は、事物の真相へ接近する為に無数の方策を案出し、計り知れないほど多くの論理的発明を駆使してきた。だが、それらの理論の何れも、事物の真相へ「到達」したと宣言する為に必要な条件を満たしたとは言えない。我々の能力に許されているのは真理への「到達」ではなく「接近」のみである。疑わしいのは自己の享受する主観的な事実だけではない。この世界には主観的事実しか存在しないのだから、他人の声高に訴える総ての見解も、この「私」の抱懐している主観的事実と同様に脆弱な真実性しか確保することが出来ないのである。つまり、我々は誰も「真理」そのものを知覚したり立証したりする資格を有していないのである。

 そうであるならば、専ら自分自身にのみ注がれる猜疑心は、それがどんなに誠実な知性の働きに裏打ちされていたとしても、基本的な均衡を欠いているということになる。批判的な精神は自己にも他者にも等しく向けられねばならず、自己を絶対視して他者を無条件に批難する偏狭さも、他者を過剰に崇めて自己の無智を悔やむばかりの卑屈さも、共に知性的な美徳から遠く隔たっている。

 誰も真理を知らない、という普遍的な現実は、そもそも我々人類の「認識」という機能そのものに由来する構造的な限界であって、それ自体の善悪を論じるのは無益な行為である。誰も真理を知らないからこそ、銘々が自分の頭脳を酷使して、一人一人の実存的状況に応じた真理を発見していく過程に、崇高な意義が生じる。言い換えれば、自己の内在的な感覚を無闇に疑い、否認することは、聊かも「真理」への接近を意味しないのである。

 我々の認識の絶望的なまでに解消し難い主観的偏向、これは必ずしも是正されるべき異常な現象という訳ではない。寧ろ我々の主観的偏向は、人類全体を拘束する実存的な制約なのである。従って我々が重んじるべきなのは、客観的な真理を巡って不毛な論争を繰り広げることではなく、自己の意見の知性的水準を向上させることである。尤も、私は対話の価値を疑っている訳ではない。だが、要するに「勝敗」だけが重要であるような論争の類は時間の空費に過ぎないと考えている。他人を論破することに熱中するような知性の運用は、それ自体が虚栄心の産物に過ぎない。言い換えれば、我々の人生を形成する最も基礎的なプロセスは「自己自身との対話」なのである。これを単なる自閉的な遁走のように看做すのは表層的な偏見である。他者との対話や、現実的な行動によって、無限に循環する「モノローグ」(monologue)の荒寥たる頽廃が打破される場合があることは私も理解している。だが、そうした経験的な事実は「自己対話」の重要性を毫も毀損しない。自己対話のプロセスを欠いた人間にとって、他者の助言も現実的な行動も、単なる偶発的な経験に過ぎず、そこから生じる表層的な帰結を受け止める以外の選択肢は存在しない。換言すれば、自己対話を怠る人間に「他者の言葉」や「現実の出来事」の意味を理解し、咀嚼する能力が備わる見通しは皆無なのである。だからこそ、虚栄心に塗れた人間は「自己対話」の怠慢を通じて、自己自身の真実の姿を黙殺すると共に、他者から寄せられる表面的な讃辞に依存して、その讃辞が誤解に満ちたものであっても何ら痛痒を覚えずに刹那的な充足へ至るのである。

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)