サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「不機嫌な私」は他者に由来しない)

*人間は生きていれば些細なことで機嫌を損ね、刺々しい感情の虜に堕す。情緒が安定しているのが一番好ましく望ましい状態であることは理窟では弁えているのに、不機嫌に傾斜していく自分自身を押し留めようにも抑止出来ず、無意味な口論や意地の張り合いに明け暮れる。本当は極めて小さな事柄で躓いただけだったのに、それが絞られた引鉄のように無数の惨事を記憶の彼方から呼び覚ます。僅かな蹉跌が致命的な損害へ発展する。全く以て不毛な経緯であるのに、こういう現象は何時まで経っても我々の住まう世界においては払底しない。

 我々は基本的に不機嫌な状態に陥ることを望んでいないが、一方では、不機嫌という現象には奇怪で貧困な「甘露」の味わいが潜んでいる。他人を批判することの快楽が油のように滲んでいる。我々は不機嫌の原因を自分の裡にではなく、他者や物質に求める。つまり、不機嫌の原因を絶えず自分の外部に探すことで、己の不安定な情緒、己の惰弱な理性を免罪しようと企てるのである。こうした態度は聊か欺瞞的なものである。我々の不機嫌が、外界の事物との間に明確な因果関係を持たず、極めて曖昧で恣意的な相関性しか有していないことは、広く知られた経験的事実であろう。同じ出来事に遭遇しても、何とも思わず看過し得る日もあれば、無性に目障りで腹立たしく感じる日もある。このような現実を踏まえて推論すれば、不機嫌の要因は外在的なものではなく、飽く迄も自己の内部に横たわっているということになろう。

 世の中には何時も不機嫌な人間がいて、彼らは絶えず「被害者」のポジションを占有することに余念がない。他人の悪口を常時溜め込んで喧しく囀り、飢えた野犬のように吼え立てる。彼らは他人の所為で、世の中の所為で、自分の内側に形成された厖大な不満を持て余しているのだと尤もらしく告発する。社会に瀰漫する不正義が、他人の歪んだ思想や無遠慮で無神経な悪意が、自分を苦しめているのだと大声で訴える。確かに、不公正な罪悪は批判されるべきである。自分の意見を開陳するのも大切な振舞いであろう。だが、自動化された問責は、鬱陶しいだけである。自分の不幸の原因を自分自身に求めない他責的な態度に、心から敬愛を寄せる物好きは滅多にいない。

 原則として、人が不機嫌になる理由は、自分自身の落ち度である。そのように考えるのが最も建設的で賢明な態度である。他人を批判するのも憎むのも確かに個人の自由で、不合理な要求には異議を唱えることが肝腎だ。けれども、他人を批判するのは、他人の行為が自己に実質的な害悪を齎す場合に限るべきである。自分と無関係な他人の悪事を執拗に批難しても、それは遠吠えのように虚しく、誰の耳にも届かないし、現実を変革する具体的な効力も発揮しない。忌まわしい社会的な事件に憤激したり同情したりするのは大いに結構だ。けれど、そうした事件に自分自身が具体的な対処を試みたり、被害者に救済と慰藉の手を差し伸べたりする訳でもなく、単に批判的な言説を弄して満足するのは、要するにマスターベーションと同じである。他者の悪事を批判するのは簡単なことで、犯罪者を罵言で虐げるのも簡単なことだ。だが、それが一体、誰に如何なる利益を齎す行為であるのか? 単なる憂さ晴らしに過ぎないではないか。

 不機嫌な自分を発見した場合には、成る可く他者の問責という半ば反射的な選択肢から遠ざかるのが賢明である。他者が思いやりを欠いていたり、明らかに不当であると思われるような言動を見せたりしても、それによって自分自身の機嫌まで損ねる必要はない。異論があるのなら、それを相手に説明して改善を求めればいい話だ。無論、対話が不首尾に終わる場合もあるだろう。だが、どんなに親密な間柄でも他人同士の対話なのだから、成功しない対話に落胆したり憤激したりする理由はない。換言すれば、己の不安定な情緒の責任を他人に転嫁してはならない。そのように、自分自身を戒めることを心掛けたいと私は思う。