サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

エピクロス「教説と手紙」に関する覚書 1

 六日連続勤務の合間に、古代ギリシアの哲学者エピクロスの残存する著述と書簡を編輯した『教説と手紙』(岩波文庫)を読了したので、覚書を認めておきたい。

 夥しい数の著作を遺しながら、その殆どが散逸してしまった紀元前の哲学者の文章が、曲がりなりにも消え残って二千年以上もの風雪に堪え抜き、縁も所縁もない異国の言葉に翻訳されて、極東の島国の書店の棚に陳列されているという現実は、冷静に眺めてみれば驚嘆すべき奇蹟的な事態である。

 ストア学派の人々に限らず、多方面から劇しい批難と誹謗を浴びせられた人物であったと伝えられるエピクロスの思想には、享楽主義という偏頗で不正確なレッテルが貼られ、その真意は数多の誤解と謬見に覆われてきた。紀元前の社会も、インターネットの世界に飛び交う凄まじい悪意の増殖に苦しめられている二十一世紀の社会と同じく、異質な人間に対する峻厳な迫害の氾濫する世界であったのだと思うと、虚しくもあり、可笑しくもある。折角、二千年以上の星霜を閲した後に生まれたのだから、如何にも同時代的な偏見の数々から遠く離れて、成る可く彼の遺した思想の成果を、その貴重な余燼を、虚心坦懐に受け止めて己の生活に役立てていきたいと私は思う。

 禁欲を宗旨に定めるストア学派と、享楽を是認するエピクロス学派という通俗的な図解は、当時の誤解と無知に基づいた歴史的偏見の軽率な遺産であるように感じられる。例えばストア学派に属すると言われるセネカの文章にも、確かにエピクロス学派の思想に対する執拗で批判的な言及が含まれていることは事実だが、注意深く読めば、その筆鋒の狙撃する対象はエピクロスその人であるというよりも、その看板を悪用する放埓で淫猥な崇拝者たちであることが窺い知れる。

 私自身、個人的にはこういう意見をもっている――わが(ストア派の)朋輩は不服であろうとも私はそう言いたい――、すなわち、エピクーロスの教えは尊く、正しいものであり、さらに近寄ってよく見れば、厳格でさえある、と。彼の説く例の快楽はわずかで、ささやかなものに限定されており、彼はわれわれが徳の戒律とするものを快楽の戒律としている。彼は命じる、快楽は自然に従え、と。ところで、自然を満たすにはごくささやかな贅沢で足りる。では、どういうことなのか。懶惰な閑暇を幸福と称し、口腹の欲と肉欲こもごもの生活を幸福と称している者たちは皆、悪事の後ろ楯となってくれる立派な権威者を得ようとして、その魅惑的な名に惹かれて彼(エピクーロス)の門を叩きはするが、聴いた教えどおりの快楽ではなく、自分が携えて行った快楽を相変わらず追い続け、その挙句、自分の悪行は教義に適うものという謬見を抱き始め、それからというもの、おずおず、こそこそどころではなく、大っぴらに奢侈に耽るようになる、ということなのである。それゆえ、わが派のたいていの人たちが言っているように、エピクーロス派は醜行の教師だなどと言うつもりは、私にはない。こう言おう、それは悪しざまに言われ、評判が悪い、と。「だが、いわれのないものだ」。ある程度深く教義を学ぶことを許された者以外、誰がそうだと知りえよう。ほかならぬその外面があらぬ噂を生む隙を与え、邪な期待を刺激するのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.158-159)

 現存する断片に記された「隠れて生きよ」という語句の通り、エピクロス派の人々には聊か秘教的な閉鎖性が浸透していたのかも知れない。そうした閉鎖性が無用の誤解を招き、誤解が偏見を養って、感情的な批判を生じさせる遠因となったのかも知れない。往古の具体的な消息は最早定かではないが、少なくともセネカに限って言えば、そのような攻撃的偏見からは自由であったように思われる。そもそも、ストア学派エピクロス学派との思想的差異は、歴史的な偏見の劇しさにも拘らず、極めて軽微であるように見受けられる。エピクロスが称揚した「快楽」の内実は、決して貪婪な酒池肉林の享楽ではない。肉体的な快楽に対する無限の審美的探究は寧ろ、彼の抱懐していた哲学的信条に反するものである。

 それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.72)

 エピクロス自身が極めて明瞭にこうした陳述を書簡の中に遺していることを鑑みれば、彼とストア派との奇怪な対立は実に不毛な謬見の応酬に過ぎなかったのではないかと感じられるほどだ。欲望を規制し、過大な享楽を求めず、静謐な幸福の裡に人間の実存的理想を見出すという思考の形式は、殆ど重なり合うほどに酷似している。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)