サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(体罰・虐待・懲戒権)

*子供を寝かしつけた後、テレビのニュースを眺めていたら、政府が近年続発する児童虐待の防止に向けて、児童福祉法及び児童虐待防止法の改正案を纏めたという報道に偶然接した。同時に政府は法改正と併せて、民法に定められた「懲戒権」に就いて、五年間を目途に見直しに着手する方針を示したらしい。

 民法第820条 「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う

 民法第822条 「親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる

 恥ずかしながら報道に接するまで、曲がりなりにも人の親という立場でありながら、私は「懲戒権」という民法上の規定に就いて完全に無智であった。条文の詳細は無論のこと、親の子に対する「躾」に関して、法律的な規定が明示されているという事実さえ、毫も弁えていなかったのである。

 考えてみれば、親子関係に関する法律の規定すら知らない人間が、親権と監護権を保持して、日常的に幼い子供の養育に携わっているという現実は、本当は直ちに是正されるべき奇態な情況なのかも知れない。私たちは、勿論例外は多々あろうけれども、往々にして余りに無智な人間のまま、安易に子供を作って親の肩書を手に入れてしまっている。児童虐待の背景には、親の人格的な特性や未成熟も大いに関わりがあるだろうが、最も根本的な原因は、こうした親の「無智」と、親に対する教育の欠如或いは不足ではないかと思われる。

 人間の親、或いは必ずしも血縁がなくてもいい、何らかの肩書の下に、子供の監護に携わっている人間が、その役割を果たす為に保有すべき知識の量は極めて厖大である。無論、親としての自覚を懐き、自助努力によって知識の増進と拡張に努めることは当人に課せられた責務であるが、一切を親の自助努力によって賄おうとするのは冷酷な話である。無論、私は公教育を筆頭とする、育児への諸々の公的支援に対する感謝を失念している訳ではない。

 親から懲戒権を奪うような法改正が見込まれるということに就いて、輿論は様々な方面へ分裂するのではないかと思う。教育の為の体罰を容認する人間は、この国では未だ絶滅危惧種でさえない。そういう人間にとっては、体罰が禁じられるのみならず、懲戒権の規定さえ削除されるのでは、正当な親子関係は成立しないと非難の声を上げるかも知れない。確かに、子供は或る意味では愚かな側面を有している。彼らの知性も知識も経験も、成人に比して相対的に未熟なものであることは事実である。だが同様に、親の立場に置かれている人間も、往々にして未熟な存在であり、その知性も知識も不充分である。教育者としての正当な資格と力量と見識を認められていない人間が、ただ生物学的な血縁を根拠として、子に対する懲戒権を自動的に確保し得るというシステムが、そもそも深刻な危険を孕んでいることに就いて、我々はもっと開かれた議論を交わすべきであろう。

 医学的な障碍や性的な搾取を予防する為に、性教育の重要性が叫ばれるようになって既に久しいが、妊娠及び出産までの知識を持っているだけでは、二十年以上も続く養育の難事業を無事に成し遂げ得るとは言い難い。性交から子の成人までの広義の「生殖」に関する我々の知識は、質的にも量的にも必ずしも均等ではない。親になるということは、仕事で金を稼いだり家事を熟したりという作業への単純な習熟だけでは担い切れない責務を負うことである。極論を言えば、親になるに際して、何らかの国家資格の取得を義務付けるような制度を検討することも必要かも知れない。自動車の運転に免許が要るのならば、子の養育に免許が必要であっても何ら不思議ではない。そうした措置は、唯でさえ下落に歯止めの掛からない出生率を益々凋落の傾向へ追い込むことになると批判する人も現れるかも知れない。だが、無智に基づいた安易な生殖活動が、極めて悲惨な虐待の事案を生み出す温床であることを鑑みれば、少なくとも何らかの知識の取得を親に命じることは妥当な措置ではあるまいか。

 殆どの日本人が学生時代の裡に自動車の運転免許を取得する現代にあって、同様の「通過儀礼」のように、親としての教育を授ける制度を構築することは、実際の運用の局面においては様々な課題が噴出することは確実であるにせよ、長い眼で見れば重要な国家的施策となり得るのではないか。児童虐待、強姦、望まれない妊娠、性感染症など、広義の「生殖」に関する教育の不充分な効果、或いは「生殖」への関心に対する隠然たる社会的抑圧が遠因となって惹起されている悲惨な事象は枚挙に遑がない。懲戒権の見直しは、こうした広義の「生殖」に関する我々の価値観及び社会的制度の再設計の端緒となるかも知れない。