サラダ坊主日記

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ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 1

 エピクロスの『教説と手紙』(岩波文庫)を通読した流れのままに、現在は古代ローマの詩人であるルクレーティウスの『物の本質について』(同上)の頁を少しずつ捲っている。

 古代ギリシアで活躍したエピクロスの厖大な著述は、その過半が散逸したと言われ、現存するテクストの総量は極めて僅少である。それゆえに、エピクロスの思想的精髄を長大な叙事詩の形式に移し替え、流麗なラテン語の韻文の裡に保存したルクレーティウスの業績は今日、エピクロスの思想を解明する上では不可欠の稀な手懸りとして尊重されている。

 哲学的な思想を扱った二千年前のラテン語韻文を、現代の日本語に移植するという訳者の試みが、凄絶な艱難に包囲されていたであろうことは想像に難くない。尚且つ初版から六十年近い歳月が経過しており、古色蒼然たる訳文の息遣いは聊か馴染み難い硬質な感触に満ちている。けれども、時代も文化も異なる隔絶した土地の哲学的且つ芸術的な稔りを、曲がりなりにも日本語の散文として享受することが出来る現実に対しては、読者として謙虚な感謝を捧げるべきであろう。

 僅かな書簡と断片しか残存していないエピクロスその人の「遺言」から、その思想の全貌を精確に復元することは限りなく不可能に等しい。そうした難事業を推進するに当たり、ルクレーティウスの情熱的な詩文の写本が果たした役割は極めて大きいと思われる。

 エピクロスの提唱した「原子論」(atomism)は、単に近代的な自然科学の淵源に留まるものではない。その最も重要な革命性は、エピクロスの思想における無神論的な性質、つまり神話的解釈の排斥の裡に存している。彼は認識と思考の基礎を「感覚」の明証性の裡に置いた。そして感覚を通じて確証し得ない事物に関して、神話的な解釈を持ち出す宗教的で呪術的な思考の形態を批判した。こうした思想的格闘は、決して原始的な古代社会に固有の哲学的探究ではない。感覚を通じて確証されない事物に関して、曖昧なイメージを被せて論じる安直な習慣は常に、現代に暮らす我々の日常的な思考を支配している。

 原子論の前提となる「無から有は生じない」という大原則は、造物主としての「神」という宗教的な信憑を破綻させる剣呑な着想である。また、感覚によって確証されないものを信じることは出来ないという不可知論的な探究の方針は、既成の神秘的な世界観を根底から転覆させるものである。こうした無神論的な意志の顕現は、それ自体が既に哲学的な意志の具体的な表現である。

 宗教、或いは宗教以前の或る共同体的な神話や伝承の蓄積、それが共同体の内側で暮らす成員たちの精神を規定し、その行動に揺るぎない制約と枠組みを賦与する。こうした「社会化」の過程は、二千年以上前の古代ギリシアに限らず、あらゆる人間的集団の内部で不可避的に生じる、半ば本能的な現象である。社会化を遂げるということは、必ずしも現実を客観的且つ普遍的な構図に基づいて把握したり解釈したりすることを意味しない。共同体に固有の価値観を、普遍的な認識として定義する類の擬制は、共同体への忠誠を高める為に頻繁に編み出されるものであるが、それは往々にして或る権力的な歪曲である。神話的な意識は、感覚の裡に受け止められた経験的な現実に対して賦与された局所的な意味の塊なのだ。そうした共同体の価値観を打破し、異なる視界を開拓し、誤謬や臆見を取り除こうとする意志が、ソクラテス的な「哲学」の本領なのではないか。

 そういった意味では、エピクロスにとっての原子論及び自然哲学は、単なる現実の冷静な観察という作業を超越した意義や使命を担っていると言える。現実に関する認識は常に主観的な相対性の制約を蒙っている。従って、神話的な解釈の意志に対して哲学的な解釈の意志を優越させることは必ずしも正当であるとは断言出来ない。寧ろ、或る特定の集団の内部にあっては、哲学的な意志は共同体を支える価値の枢軸を揺さ振り、倒壊させかねない危険を孕んでおり、往々にして冒瀆的な悪意のように冷遇され、排斥され得るものである。エピクロスに対して向けられた夥しい猛烈な痛罵の声は、若しかすると彼の哲学的な意志に対する逆説的な褒賞なのかも知れない。つまり、エピクロスに対して注がれた誹謗中傷の劇しさはそのまま、共同体の信奉する局所的な現実を超克しようと試みる彼の哲学的意志の鮮明な強靭さを傍証するものなのかも知れないのだ。

 エピクロスは感覚的な明証性を、つまり明瞭な感覚を認識の根拠或いは基準として尊重する。そして、明瞭な感覚によって確かめられることのない認識を疑わしい謬見として斥ける。観察し難いもの、つまり明瞭な感覚を通じて把握することの出来ない天文学的な事象に就いては、特定の説明=理論に偏重しないことを重要な規範として強調する。こうした思想の形式は、当然のことながら、感覚を通じて確かめられることのない恣意的な認識の集成である「神話」への抵抗を含んでいる。感覚を通じて立証されない事柄に就いて、多様な解釈の流通を容認せず、極めて不合理な根拠に基づいて、或る特定の解釈に優位性を与える行為は、明らかに恣意的な権力の行使に他ならない。換言すれば、そのとき哲学的意志には政治的な効用が、しかも「叛逆」という名の政治的効用が宿るのである。ソクラテスの処刑は、哲学的意志が不可避的に内包している危険な政治的効用の象徴である。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)