サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 2

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 エピクロスの原子論は、従来の原子論に対して付け加えられた独自の創見である「クリナメン」(clinamen)即ち「原子の斜傾運動」によって画期的な意義を帯びたと一般に評価されている。

 この問題に関して、こういう点もまた君に理解して貰いたい。即ち、原子は自身の有する重量により、空間を下方に向って一直線に進むが、その進んでいる時に、全く不定な時に、又不定な位置で、進路を少しそれ、運動に変化を来らすと云える位なそれ方をする、ということである。ところで、若し原子がよくはすに進路をそれがちだということがないとしたならば、すべての原子は雨の水滴のように、〔一直線に〕深い空間の中を下方へ落下して行くばかりで、原子相互間に衝突は全然起ることなく、何らの打撃も〔原子相互間に〕生ずることがないであろう。かくては、自然は決して、何物をも生み出すことはなかったであろう。(『物の本質について』岩波文庫 pp.71-72)

 この微妙な偏差が、あらゆる事物の生成を促す根源的な素因として作用する。こうした観点は、換言すれば「偶然」という要素の理論的な導入である。重要なのは、クリナメンと呼ばれる偏倚が「全く不定な時に、又不定な位置で」生じる現象であると明記されている点である。つまり、クリナメンは「偶然」に関する決定論的な解釈、即ち「偶然とは、未だ解明されない必然に過ぎない」という認識を根底から拒絶する着想なのである。偶然とは不充分な認識の視野に映じる幻覚に過ぎず、我々の認識が神性の次元に位置していれば、如何なる偶然も必然の過程として露わに可視化されるという決定論的信憑は、全知全能の神を奉じる宗教的信憑との間に緊密な紐帯を締結していると言える。つまり、クリナメンの理論的導入は、それ自体が「全知全能の神」という超越的表象への批判と抵抗を含んでいるのである。それは万能の神による被造物の全面的な支配を破綻させる重要な威力を秘めている。

 総てが絶対的な始原の「一者」から流出し、堅牢な必然性の階梯と連鎖を辿って、この瞬間の「現実」を形成しているのだという決定論的な思想は、人間を不動の宿命の下に拝跪させる。だが、エピクロスのみならず、ストア学派セネカも含めて、ヘレニズムの思想家たちは一様に「運命を嘲笑すること」に人間の本質的な美徳を配置している。運命への屈従は、そもそも人間的な美徳へ到達する為の努力を根底から否定する邪悪な性質を帯びている。決定論による恐喝に屈することは、人間を単なる物質へ還元することと殆ど同義である。

 なお又、すべての運動は常に関連し合っていて、新しい運動は不変の順序に従って、必ず古い運動から発生するのだとしたならば、又、原子が進路をそれることによって〔新たなる〕運動の発生――これこそ運命の掟なるものを破棄するものであり、因が因に続いて無限にわたることをなからしめるものであるが――を起すことがないとしたならば、地上に在る生物の、此の自由意志なるものは一体何処に起因しているであろうか? 我々が好む方向に進み、我々もまた時を定めず、処を定めず、我々の心の導く方向へ運動を起す此の意志は、運命とは関係のない此の意志は、一体何処に起因しているであろうか? 何故ならば、この運動を始めさせるものは各自の意志であり、運動はこの意志から発して四肢に波及するものであることは、疑いの余地がないからである。(『物の本質について』岩波文庫 p.73)

 クリナメンが「運命の掟」を断ち切る特異な現象であることをエピクロス=ルクレーティウスは明瞭に意識している。始原の瞬間から未来永劫に亘って持続する「必然性」の鎖を、原子の偶発的な偏差が歪ませ、乱れさせるという現象の裡に、彼らは人間性の根拠を見出しているのである。

 超越的で絶対的な存在(神)が宇宙の頂点に鎮座し、森羅万象に関わる因果律を独占的に支配しているのならば、人間の自由意志はその実在と機能を否定され、人間の歴史は、唯物論的な構造の連鎖に還元されてしまう。総てが予め定められた完全な調和の裡に封じられているのならば、人類の歴史的な発展も社会の進歩も単なる不可避的な現象に過ぎず、そこに人間に固有の尊厳や矜持を認めることは不可能になる。

 超越的で絶対的な存在への熱心な帰依だけが幸福へ通じる扉を開くのだと説く宗教的な信仰は、超越的な因果律への盲従を選ぶことによって、自らの理性を度し難い蒙昧の深淵へ遺棄する暗愚な人間たちの数を無際限に増大させる。彼らは自らの判断よりも超越的な絶対者の有難い教説を優先し、神の定めた規範を遵守することに身命を惜しまず、その報酬として下賜される理想的な救済を夢見ながら死んでいく。死後の世界を想定し、彼岸の幸福を褒賞として、過度に道徳的な地上の生活を信徒に強いる宗教的支配の構造は、詐欺的な性質を孕んでいるのである。

 エピクロスが自らの倫理学に関する教説において、死を恐懼することの無益を強調し、死に対する不安や絶望に苦しむことの不毛を繰り返し説いたのも、煎じ詰めれば彼の無神論的な意志の明瞭な反映であろうと思われる。死後の世界を、我々は内在的に認識することが出来ない。我々の周囲で展開される外在的な事象としての「死」は、例えば霊魂や輪廻といった宗教的な幻想を否定する厳密な証拠としては機能し得ない。言い換えれば、内在的な経験としての「死」は、我々の感覚的な明証性の圏外に定位されるべき事柄であり、従ってそれは原理的に確証の不能な対象として存在しているのである。確証し難い事物に就いては、如何なる仮説も成立し得ることを我々は承認せねばならない。それを単一の幻想的な物語に向かって強制的に接続する総ての宗教的権威は、エピクロスによる厳格な批判の対象に指名されるのである。確証し難い事柄に関して、特定の単一的な説明に絶対的な優越を認めるのは、論証ではなく信憑であり、客観ではなく恣意である。

 原子論は造物主という幻想的観念を破壊し、クリナメンは絶対的な因果律を破綻へ追い遣り、死に対する恐怖の無効化、或いは死後の世界という幻想の否定は、宗教的道徳の抗い難い威力を減殺する。これらの哲学的探究の成果が悉く、宗教的な支配への叛意を含んでいることに我々は充分な注目を払うべきである。それは我々の精神的な自由を恢復し、他者への蒙昧な依存を癒やして「自律」の境地へ導き入れる崇高な教育的効能を発揮するのだから。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)