サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(運命・逆境・clinamen)

エピクロスの原子論によれば、我々の住まう宇宙は、厖大な数の「原子」と無限に広がる「空虚」によって構成されている。そして「原子」の直線的な運動が、純然たる偶然に基づいて唐突に微妙な「偏差」を示すことによって、原子間の偶発的且つ相互的な結合が生じ、それを端緒として森羅万象が形成されたのだと彼は論じる。

 こうした論理は、決定論的な思想に対する叛意を明確に含んでいる。何の脈絡もなく、如何なる因果律によっても規定され得ない純然たる偶発的な偏差としての「クリナメン」(clinamen)は、世界の原初から未来に向かって営々と紡がれていく必然性の秩序を動揺させ、その完璧な均斉を破綻させる威力を秘めている。

*そういう発想は、案外日常の生活にも役立つのではないかと、不意に思い立った。私が責任者として管理している店舗に就いて、昨夏以来の業績悪化が一向に恢復の兆しを示さず、寧ろ更なる凋落の気配さえ窺わせていることに、入居している取引先が愈々業を煮やし、本部の重役を売り場に派遣して権高な態度で改善を要求してきたのが先月のことである。売り場の写真を撮られ、事細かな指摘と執拗な叱責を浴びて、改善の計画書を提出しろと命じられる日々である。私の直属の上司も対応に苦慮して東奔西走している。そもそも直近の数箇月は会社全体の業績も芳しくない上に、私の店舗は競合する近隣の商業施設の新装開店の影響を蒙って、余計に売上の低迷が著しい。それまでの一年間は逆に、その競合が改装工事に伴って閉店していたので、私の店舗は空前の好況を謳歌していた。一年限りの極楽は昨夏の新装開店で忽ち堪え難い地獄へ変貌し、彼是と対策を打つものの、目覚ましい成果には一向に結び付かぬまま、年を越してしまった。

 前年の実績との乖離が余りに大きく、日々絶望が募る。僅かな希望を踏み躙るように来る日も来る日も予算に対する深刻な惨敗が続き、積極的な販売行為よりも乏しい収益を確保する為の防衛的な運営が、方針の根幹を占め始める。そういう臆病で怯懦な姿勢を取引先は憎々しげに見凝めてくる。そして今日、私は本社における会議の後で、販売部長から呼び出しを受けた。

 過去の経験の蓄積で、大抵の叱責には免疫の出来ている私であっても、部長から直接召喚されれば流石に身構えてしまう。だが、こういう場面では、逃げ出したり怯えたりするのが最も低劣な下策である。数字が思わしくないときほど、頑張って前を向いて姿勢を正していた方が好ましい。相手の眼を見据えて、私は静かに部長の叱声を待ち受けた。

 ところが、部長の説諭は聊かも高圧的なものではなかった。指摘の内容自体は、現実を容赦なく見据えたもので、決して甘やかすような響きはない。此処で自分の行動を革め、窮状を打開する為の情熱を持たないと駄目になるぞという含意が、言葉の隅々に行き渡っている。それでも、私は温情を感じた。私の能力に不満があれば、自身の一存で首を挿げ替えることの出来る権限を、部長は持っている。それを行使せずに、寧ろ激励の意図を籠めて貴重な時間を割いてくれたのだ。感涙はしないが、その有難い心意気に絆されない私ではない。

*競合の新装開店が、売上の低下に決定的な影響を及ぼしていることは、概ね間違いのない事実である。昨年の好況が、同じく競合の一時的な閉鎖によって齎されたものであることも事実である。従って、眼前の深刻な不況には合理的な必然性が存在する。けれども、そうした必然性に一から十まで隷属するかどうかは、合理性の有無とは別個に切り分けて論じられるべき問題である。私に課せられた本来の役目は、現実の純然たる分析ではなく、その建設的な改善である。そうであるならば、運命への隷属は明らかに消極的な悪徳に類する態度であろう。

 好況のときは、眼前の現実に追従するだけで素晴らしい成果が手に入る。殊更に頭を悩ませる必要はない。人手を確保して精一杯働けば、自ずと輝かしい業績が手許に転がり込むのだ。そうした状況においては、現実の精確な把握と相応の機械的な準備だけで仕事が済んでしまう。現状を打開せずとも、便乗していれば万事快調に運ぶのである。

 けれども、一旦不況の局面に転じれば、現状の追認は直ちに破滅と衰亡を意味することになる。従来の正義は、最も頽廃的な悪徳に様変わりする。そのとき、運命への隷属は、破滅の幇助に過ぎない。本当に大切なのは、運命を嘲笑することだ。換言すれば、不況という数値的な現実の裡にあって、何らかの「異常値」を生み出すことが肝腎なのである。

 それはいわば「クリナメン」を生み出すことに等しい。現状に安住する限りは避け難い或る必然的な因果律を強引に捻じ曲げること、それだけが不幸な必然性による圧政を斃す為の唯一の方途なのである。部長と話した後、私は次回の出勤日に関して、前年の単品売上実績を調べた。一番売れている商品と、その売上金額を確かめた。せめて、その単品の売上だけでも、去年の自分を越えられないだろうか。そうやって、少しでも「異常値」を作り出すことは出来ないだろうか。その些細な「クリナメン」を足懸りに、この閉鎖的で絶望的な窮境に風穴を穿つことは出来ないだろうか。

 部長が、単に数字の表面だけを眺めて批判しているのではないことは、差し向かいの会話の過程で直ぐに感じ取れた。彼が不満に思っているのは、現実に屈服している私の冷え切った臆病な「懶惰」なのだ。こんなところで躓いてる場合じゃないと、部長は言った。もう一度確り自分の足で立ち上がれと言われているのだと、私は思った。異常値、という言葉が脳裡を過った。風穴を穿つ為には、異常値が必要だ。それは局所的なもので構わない。僅かな「クリナメン」が森羅万象を生成するのと同じように、小さな挑戦が現状を変革する糸口になるのだ。

 過去を顧みれば、私もそうやって働いていた。今よりも若く愚かだった頃、売上の低迷している店舗に配属される度に、私は無我夢中で、手当たり次第に、色んな策を講じて無謀な情熱を燃やした。その情熱に理性と知識が足りないことをやがて私は恥じるようになったが、理窟を弄んでも現状が動かないことは事実なのだ。小利口な人間であってはならない。家路に就きながら、私は自分が考えたこと、決めたことを部長に宣言したいという想いに駆られた。自宅の最寄り駅を通過して、そのまま閉店作業を終えた売場へ赴き、パソコンを起動した。片付けを終えて談笑するアルバイトのスタッフたちの傍らで、私は熱心にキーボードを叩いた。読み辛く気色の悪い長文と化したメールを送信して、溜まっていた息苦しさが不意に和らいだような感覚に包まれた。

 学生の女の子がアメリカ旅行の土産に買ってきた濃厚なチョコレートを一粒貰って、一頻り他愛のない雑談を交わしてから、私は灯りの落ちた売り場の広大な通路を、出口に向かって歩いた。無論、未だ現実は何も変革されていない。だが、変革を志す想いに比べれば、惨めな現実など何の意味があるだろうか? 最早、これは業務上の成果の問題ではない。私という人間の、内在的な格闘の問題なのだ。