引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。
古代から近現代に及ぶ人類の社会的な発展の過程は、専門的分業の発達の過程を同時に含んでいる。無論、小さな集団であっても、複数の人間の協調が存在する領域に、何らかの分業的制度が樹立されることは当然である。社会的規模の膨張は、そうした分業の網目を更に複雑な構造へ変容させていく圧力を孕んでいる。
誕生の当初は、如何なる事物も、曖昧な領域と不鮮明な輪郭の裡に留まっている。胎児の発達を考えてみれば、こうした経緯は明瞭に観察され得る。受精卵の状態から、分娩に備えるばかりの状態に至るまで、胎児の身体が発達していく過程は、未分化な事物の組織が徐々に具体的で内的な秩序を獲得し、その領域と境界が鮮明な形態を賦与される漸進的な変貌の過程である。曖昧に絡まり合い、渾然たる集合として存在していたものが、銘々独立した「部分」の相互的協調という形態へ転換していくこと、これが「発達」という現象に附随する原理的特徴である。
換言すれば、それは或る渾然たる「全体」が、各自の専門性を備えた「部分」へ徐々に分化していくということである。人間の肉体のみならず、社会の構造もまた、同様の「分化」の過程を不可避的に伴っている。学術に関しても同様で、古代ギリシアの時代に「自然学」という呼称で指し示されていた領域は今日、無数の専門性の砕片に分割されている。自然科学は専ら事物の普遍的で客観的な構造の究明に情熱を燃やし、仮説と検証の絶え間ない往還を通じて、如何なる社会的意味からも切り離された純然たる「実相」の検出に邁進している。
だが、エピクロスの時代にあっては、こうした自然科学の発想は、単に実相の検出を追求するだけの営為ではなかった。それは古代の学問が、現代の学問に比べて遥かに未分化な性質を有し、それゆえに綜合的な全体性を保持していたことの反映である。彼の綜合的な思索の裡にあって、自然学と倫理学とは相互に不可分な関係を有している。彼にとって自然学の探究は直ちに倫理学の探究を意味していた。それは彼の思索が「神話的なもの」の排斥という重要な主題に向かって捧げられていたことの、必然的な帰結であると言える。
例えばルクレーティウスは「物の本質について」の第三巻において、「精神」(animus)或いは「霊魂」(anima)の性質に就いて論じながら、霊魂が肉体から独立して存在するという見解を綿密な筆致で批判している。彼は霊魂が肉体との有機的な合一の裡に存在しており、肉体と同様に可死的な事物であることを繰り返し強調している。こうした力説に籠められた意図が「死後の世界」という観念の否定に存することは概ね確実であると思われる。「死後の世界」という幻想的且つ神話的な想定が成り立つ為には、霊魂の独立的な性質が明証されねばならない。肉体を単なる現世的な「容器」の地位に貶め、霊魂を肉体と無関係に活動する存在として、肉体の制約から弁別するという「霊肉二元論」の発想は、不可避的に「