サラダ坊主日記

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ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 4

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 古代ギリシアの賢人エピクロスの思想を後世に伝えるルクレーティウスの貴重な詩文は、エピクロスの遺した厖大な著述(現代では、その過半は既に散逸して、我々の眼に触れる見込みは立っていない)の裡から、主として自然学に関する部分を抽出して、荘重な韻文の調べに乗せている。けれども、過去の記事において既述したように、エピクロスにおける自然学は、倫理学との間に密接な相関性を有し、彼の無神論的な信条の基礎的条件としての役割を担っている。原子論に基づく彼の世界観は、霊魂の不滅性や、宇宙の創造者といった神話的な観念の体系を根底から突き崩す危険な性質を備えている。ルクレーティウスも、自身の作品における、そうした無神論的な意図の存在を明瞭に主張している。

 その理由は、先ず第一に、私は宏大な問題を説き、ひいては人の心を宗教という固い結びから解き放とうと努めんとするからであり、第二にはかくも難解なこの問題を、すべて詩という魅力を用いて、私はいとも明快な詩に歌わんとするからである。(『物の本質について』岩波文庫 P159)

 ルクレーティウスの著述の意図が、エピクロスの思想的遺産の継承を通じた無神論的な「啓蒙主義」に存すると共に、自然学と倫理学との有機的な連携の実現に向けられていることは確かな事実であると私は考える。「クリナメン」(clinamen)という固有の創見を附加されたエピクロスの原子論は、単なる事実の考究や学術的な思弁に留まらず、我々人間の倫理的な規矩の根源的な更新を促す効用を明確に含んでいる。従って、自然学的な知見が直ちに倫理学的な知見へ移行したり、双方に関する記述が混在したりする事態は、決して不合理な現象ではないのである。

 倫理学的な観点から見れば、穢れた「享楽主義」(hedonism)の汚名を纏い、世人の誹謗に晒されることの多かったエピクロスの道徳的規範は、禁欲の代名詞として知られるストア学派のそれと、大きく異なるものではない。享楽主義者を意味する「エピキュリアン」(epicurean)という慣用的な単語は、明らかにエピクロスの思想に対する攻撃的な誤解と悪意に基づいている。彼は決して積極的な快楽の追求を推奨した訳ではない。彼の主要な倫理的目標は「苦しみの欠如」であり、無限に湧出する欲望の野蛮な命令への隷属は、寧ろ理念の実現を妨害する悪徳として斥けられているのである。

 例えば「物の本質について」の第四巻の終盤には、恋愛の欲望に対する峻厳な批判的言及が織り込まれている。

 然しながら、人間の容貌や美貌からは、薄い映像以外には何も楽しむべきものは得られない。その映像とても、往々風に奪い去られる悲惨な希望に過ぎない。ちょうど夢の中で、咽の渇いた者が水を飲みたいと思い、しかも体内の焦げつく思いを消し得る水が得られず、水の映像を求め、努力しても空しく、奔流の真中に這入って飲みながら渇いている時のように、恋愛においてもこれと同様で、愛の神は恋する者に映像を見せて欺き、肉体も眼前に見ることでは満足を与えることはできず、体中を不安に撫で廻しても、柔い四肢からは何物をも手で撫で取ることはできないのだ。最後に、四肢を絡み合わせて青春の花盛りを味っている時、又肉体がその喜悦を予知し、愛の神ウェヌスが女性の畑に種子を植えつけようとする時、彼らは懸命に抱き合い、口の唾液を交え合い、歯を唇に押しつけながら、深い呼吸をする、がすべて空しいことである。というのは、何もその為に得ることはない以上、彼らは全身を以て他の肉体内に滲透することも、解け込むこともできないからである。というのは、彼らが往々達せんと欲し、争うように見受ける目的はこれなのである。かくも熱烈に彼らは愛の抱擁に執着し、やがて四肢は快楽の力に溶かされて、だらりとなる。ついに、器関に集中された欲望が突出してしまうと、しばし烈しい情熱には短い休止が起る。彼ら自身が達せんと渇望する目的は果して何であるかに当惑し、如何なる策を以てその禍を克服していいかを知り得ない時には、又同じ狂気がよみがえり、かの熱狂が戻って来る。彼らは秘密の傷を抱いて、かくも不安の内に喘いでいる。(『物の本質について』岩波文庫 P202-P203)

 達成される見込みのない欲望に溺れることは、ヘレニズムの主要な倫理学においては明瞭なる悪徳である。非現実的な欲望への執着は、宇宙の実相を究明し、正しい知見を得ることで安心立命の境地へ至ろうとする古代ギリシアの哲学的風土に、真っ向から対立する振舞いであるからだ。恋愛の情熱の究極的な目標が「自他の融合」に存することを鑑みれば、それは明らかに非現実的な欲望、不可能な欲望の典型である。不可能な欲望に執着し、その実現を希求する余り、他の事柄に対する関心を稀薄化させるのは、ヘレニスティックな倫理学の規範に照らす限り、不幸の増殖を幇助する行為に他ならない。

 それに、愛を生ぜしめるものは習慣だからである。例えば、如何に軽くとも頻繁な打撃を反復して受けるものは、永い間には負けて、倒れ易くなるものである。石の上に落ちる水滴でさえ、永い間には石に穴をうがつのを見るではないか。(『物の本質について』岩波文庫 P210)

 恋愛に関する、このようなルクレーティウスの冷笑的な言種には、漠然たるユーモアが滲んでいるように感じられる。色恋沙汰で相当な痛手を蒙った経験のある男の、自戒を籠めた苦々しい述懐のように聞こえるからだ。だが、恋愛に関する彼の省察を、過剰な禁欲主義の反映に過ぎないと侮るのは軽率である。不可能な欲望を断念する能力の鍛錬は、人間の成熟と幸福を形成する上で、決して忌避することの出来ない重要な「修行」の一つである。仮に適切な断念が行なわれなければ、人間は不可能な欲望の挫折という苛烈な現実に堪えかねて、苦痛の忘却を主要な目的に据えた様々な破滅的行為に向かって邁進してしまう。

 これが我々のウェヌスである。これからアモルの名称〔即ちクピードー、欲望の意〕が生じている。これを基として、愛の甘いあの滴が心の中に注ぎ込まれ、それに続いて冷い心痛が起って来る。例えば、愛する相手がいなくても、その映像が眼前にあり、その人の嬉しい名前が耳に聞えたりする。然しながら、この映像は避くべきであり、愛を育むものは遠ざけ、心を他に転じ、集った液体はどんな肉体にでも注入し、とどめ置くことをせず、ひとたび一人の愛にまき込まれても、憂いやかたくなな苦痛を保持しないようにすべきである。何故ならば、初めの傷を新しい刺戟を加えてまぎらし、傷の新しい内に、移り気な愛で気まぐれな振舞いをして治療し、心の動きを他に転じ得ないならば、傷は活発となり、育むことによって痼疾化し、日毎に狂気はつのり、苦悩は悪化するばかりだからである。(『物の本質について』岩波文庫 P200-P201)

 こうした記述は決して将来の漁色家に向けて綴られた懇切な覚書ではない。ルクレーティウスが危惧しているのは飽く迄も不可能な欲望への固執であり、その挫折から自動的に析出される自堕落な享楽への埋没である。叶えられない愛への執着は明らかに、現実を直視する理智的な勇気の欠如から分泌されている。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)