引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。
エピクロス=ルクレーティウスの信奉する宇宙論は、この世界の生成の合目的性を否定する。絶対的な存在としての造物主(神)が、何らかの青写真に基づいて、この宇宙を構築したのだという合理的で人為的な発想は、彼らの自然学的な見解に照らす限り、不合理な謬見の謗りを免かれないのである。
エピクロスにとっては、この宇宙の生成における現況は純然たる偶然の産物である。若しも宇宙の合目的性を肯定するならば、我々は事物の生成における偶然の関与を否認しなければならない。少なくとも超越的な絶対者を想定し、宇宙の根源的な造物主としての役割を認めるのならば、その絶対者が構築した宇宙に偶然の介入する余地を見出すことは矛盾している。そのような偶然の発生する余地も含めて、この宇宙の一切が超越的な絶対者の御心に起因する被造物であるのならば、不可解な偶然の生じる間隙は存在しない筈である。
言い換えれば、あらゆる出来事に必然性や合理性を読み込もうとする態度は、絶えず神学的な発想に依拠していると看做すことが出来る。偶然を「解明されない必然」に置換する読解の方法も、こうした神学的理念から派生する思考の様式である。神学的思考の下では、あらゆる事物や事件が「神意」の反映として定義されるのであるから、一見すると偶発的であるように感じられる事柄に就いても、必ず何らかの秘匿された「意味」が関与している筈なのである。このような思考及び精神の形式は、純然たる偶然という観念自体を臆見として不可避的に排斥する。アインシュタインの有名な「神は骰子を振らない」(God does not play dice)という言葉は、こうした神学的発想との間に重要な関連を有しているように思われる。
けれどもエピクロスは、そのような純然たる決定論的発想に異を唱え、事物の生成の最も根源的な濫觴に、原子の純然たる偶発的な偏倚を措定した。重要なのは、この偶然が単なる「解明されない必然」ではなく、如何なる合理的な因果関係にも従属しない、専ら不定期に生じる「純粋なる偶然」として定義されている点である。それは決定論的な因果律の形成する理智的な秩序を根底から転覆させる。「純粋なる偶然」の介入を認める限り、我々は超越的な絶対者によって構築され、形成された宇宙という理念を棄却せずにはいられない。若しも全知全能の神が宇宙の総体を意図的に生み出したのであれば、偶然という不可解な誤差を残存させる理由は考えられないからである。
偶然の存在しない世界では、宇宙は予め決定された完全なる設計図に基づいて運営されることとなり、総ての出来事は超越的な絶対者の意図へ還元される。人間の自由は単なる因果律の連鎖の一部に過ぎなくなり、所謂「実存主義」(existentialism)の奉じる「実存は本質に先行する」というテーゼは紙屑と化すだろう。一切が堅牢で不可避的な因果律に支配され、如何なる偶発的な逸脱も容認されないのであれば、我々の主体的な発想や意欲は一円の値打ちも持たなくなる。我々は超越的絶対者としての「神」の御心に否が応でも隷属せざるを得ない。
だが、善行を積むことで神の恩寵としての救済を希求するという宗教的営為が成立するには、少なくとも「信仰」の裡に一定の主体的な意志の介在が認められる必要がある。それさえも決定論的な因果律の制約を受けているのだとすれば、つまり「信仰」を通じて救済を希求するか否かという分水嶺さえも予め決定されているのだとすれば、最早我々は永遠に量り難い「解明されない必然」の内実に就いて、無限の煩悶を重ねるしかなくなる。何れにせよ、神学的な発想の下では、我々は超越的な絶対者の意向に対する「忖度」を回避することが出来ない。信仰と善行によって、堕落した存在としての決定論的定義が解除され、神意に基づいて恩寵としての救済が下賜されるという理路は、何れにせよ造物主の絶対的な権限に屈服している。そのような信仰の形式を功利的なものとして批判し、神と恩寵を巡って取引しようと試みる態度の不健全な性質を排撃する為に、カルヴァン的な「予定説」の発想を導入したとしても、堅牢な因果律を恣意的に書き換える権利を絶対者の専管に委ねる限り、神学的な宇宙論の構造は、その本質において如何なる改訂とも無縁である。
エピクロスは「神」という超越的な絶対者の存在そのものを否定している訳ではないが、少なくとも「神」という理念を不可知論的な「彼岸」へ放逐する方針は貫徹している。彼にとって「神」は人間の世界に如何なる関心も持たず、完璧な自足の裡に逼塞している存在であり、キリスト教の奉ずる「神」のように、人類へ救済を下賜するといった積極的な役割を担っていない。それは実質的に「神」という理念を無効化することに等しい発想である。彼は世界の生成に超越的な絶対者が関与していないことを熱心に強調し、代わりに原子の「純然たる偶発的な偏倚」を自らの宇宙論の基礎に据えた。彼は神による救済を期待しておらず、その必要性も認めていない。こうした発想は明らかに神学的な宇宙論の対極に位置するものである。尚且つ彼は、純然たる偶発性の観念を導入することで、人間の生涯を予め規定する因果律の制約を減殺した。エピクロス=ルクレーティウスの思想は、人間をあらゆる種類の他律的な拘束から解放しようと試みる主体的な意志を庇護しているのである。