サラダ坊主日記

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プラトン「ソクラテスの弁明」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 哲学的な探究は、何らかの具体的な知見や学術的な成果を獲得する為に行なわれるものだろうか。科学者が素粒子を発見し、医者がウイルスを発見するように、哲学者は何らかの知的な成果、認識的な対象の拡充を世界に齎すだろうか? 例えばソクラテスは、人間の社会に斬新で革命的な発見を持ち込んだと言えるだろうか?

 自ら実地に繙読する労を惜しんだまま、偉大な書物の引用を試みることを御容赦願いたい。オーストリア出身の著名な哲学者ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」という無愛想な表題を掲げた自著の中で、哲学的探究の目的に就いて「思考の論理的明晰化」という命題を提案している。この簡潔な要約は、哲学的探究が何らかの具体的な学説を提出することに捧げられた活動ではないことを示唆している。哲学の対象は、思考を通じて得られる様々な認識的成果ではなく、思考そのものの手順や図式や構造である。知性が知性自身に就いて吟味と省察を加えること、思考を通じて得られる成果に着目するのではなく、思考そのものの構造を究明すること、これらの要素が哲学的探究を構成する基礎的な要件である。従って哲学は、如何なる明瞭な学術的成果にも帰結しない。その主要な役割は、諸々の人間的活動の成立する条件を整えることであり、あらゆる社会的営為の基礎を形成する「予備学」の任務を遂行することである。

 例えばエピクロスの遺した当時の自然学的知見は、現代の科学的活動が解明し、集積した様々な理論的見解の前では、単なる主観的な妄想の水準に留まる部分が大きい。だが、哲学的探究に際しては感覚の明証性を根拠とすべきこと、感覚によって確証されない事柄に就いては多様な仮説の形成を容認すべきこと、超越的な存在に総てを委任しないこと、などの方法的な知見は、歴史的な変遷の過程を超越して、猶もその実効性を保持している。或いは、原子論における「クリナメン」(clinamen)の着想は、その物理的な実態に就いては解明が困難であった当時において、いわば論理的に析出された一つの思考の枠組みとして画期的な意義を帯びている。

 哲学的探究は、様々な人間的活動の基礎を形成し、それを洗煉させるという重要な責務を担っており、従ってそれは狭義の「学問」という範疇に幽閉されるべき営為ではない。如何なる職業に就いていても、或る人間が固有の生涯を送るに当たって、哲学的探究の精神が如何なる利益も齎さないと考えるべき根拠は存在しない。哲学の精神は、少数の専門家による寡占の対象となるべき理念ではないのだ。そもそも、哲学的探究とは知識の多寡や精度に関わるものではなく、知性そのものの機構に関わっているのである。

 既に整理され確定された知識を摂取するという態度は、哲学的探究においては重要な意義を担わない。哲学的探究は何らかの具体的な結論の集積として構成されるのではなく、確定的な「解答」の総和として存在しているのでもない。重要なのは「問い掛け」を持つことであり、その「問い掛け」に基づいて思索による探究の過程を反復することである。それは我々の人生が究極的な「正解」を持たず、如何なる実存の形態も容認されるという摂理に支配されていることの反映であると言える。如何なる答えを選んでも、それが結果として現実的な損失を齎す結論であったとしても、そうした事実が直ちに「謬見」として排撃されることはない。

 他者の案出した教説を全面的に受け容れて吟味の作業を怠ること、これは哲学的探究の対極に位置する振舞いである。或る公認された知見に関して、それが本当に事実であるか疑うこと、その成立の過程を吟味すること、こうした営為は、必ずしも権威に対する恣意的で遊戯的な叛逆を意味するのではなく、端的に言って「信じ難いものを信用する」という屈従の姿勢に対する些細な「異和」の感覚を堅持することを意味している。

 「異和」の感覚を抑圧したり軽視したりする態度は、哲学的精神の根幹に背馳するものである。「異和」の正体を厳密に探査し究明することなく、知的な怠慢や権威への恐懼を理由として、それを闇の中に葬り去る行為は直ちに、哲学的精神の瓦解を意味する。「異和」の内実や構造を検証しない限り、その「異和」が消滅することは有り得ない。「異和」の抑圧は「真実」を抑圧することに等しいのである。

 哲学的探究は、或る何らかの具体的で固定化された学説の習得を目指すものではない。既に築き上げられた成果の無批判な摂取は、自己の知性による吟味の過程を省略することで、実質的に他者への隷属を惹起している。例えばソクラテスは、イオニア地方に発祥した自然学の信奉者たちのように、自然界に属する事物に関して何らかの具体的な学説を陳述した訳ではない。古代ギリシアの自然学が、後世における近代的自然科学の基礎的な淵源の役割を果たしたように、ソクラテスの哲学的探究が後代、何らかの具体的で実証的な成果に帰結したとは言えない。

 ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、ソクラテスが試み、実践していたのは、何らかの固有の学説を立証することではなく、或る考えや意見や言葉の繋がりを整理し、不透明に混濁したプロセスを明晰な表象へ移管する営為であったと言える。科学の分野においては、後世に生まれた者は先賢の遺した学術的知見をそのまま借用し、それを堅固な基礎及び前提として新たな発見を附加したり蓄積したりすることが可能である。だが、ソクラテス的な明晰化への意志は、出生の後先や時代的差異の如何に拘らず、銘々が個別に取り組み堅持すべき精神的な身構えである。有名な「無知の知」という観念も、要するに自分が何を知っていて何を知らないかという認識的な「地図」を明晰化しようと図る意志に関連している。

 こうした消息を鑑みれば、ウィトゲンシュタインの提示した「哲学は学説ではなく、活動である」(『論理哲学論考』)という簡明な要約が、極めて精密で本質的な理解に基づいていることは明白である。それは何らかの固定した見解、例えば「三平方の定理」や「エネルギー保存の法則」の堅牢な不動性に依拠することとは全く異質な知性的探究であり、同時に極めて実存的で主体的な活動である。明晰化への意志、これを保持することは職業的な哲学者の専権事項ではない。ソクラテスが自らの生涯を賭して示したように、それは万人に向かって開かれた倫理的且つ知性的な努力の形式なのである。

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)