サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「プロタゴラス」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの『プロタゴラス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 悪徳という概念は、何故か自明の事柄のように我々の生活の周辺を飛び交っているように感じられるが、その精密な定義を取り出そうと試みれば、断片的な知見が氾濫して認識の混乱を招くばかりで、一向にその適切で本質的な解釈は視野に映じて来ない。我々は至極当然の顔つきで、まるで確固たる自明の基準を膚身放さず携帯しているかのように、物事の良し悪しを次々と目紛しく判定し、それに基づいて自分の行動を選択し、他人の言動に就いて囂しい議論を延々と繰り広げている。だが、悪徳の正体を、それはつまり同時に美徳の正体に関してもということだが、それらの「徳」或いは「善悪」に関する倫理的な判断の決定を、その基準の厳密な適用を、我々が揺るぎない信条に基づいて把握し実践しているとは言い難い。我々の善悪に関する規範的意識は実に頼りなく、曖昧模糊としていて、随所に論理的な矛盾や軋轢を内包している。

 ソクラテスに限らず、数百年後の古代ローマも含めた、いわばヘレニスティックな倫理学の領域においては、快楽を善と看做し、苦痛を悪と看做す素朴な快楽主義の思想が、道徳的な規範を構成する基礎的な尺度として用いられている。そして時折、人間が不本意な苦痛の裡に敢えて留まり、持ち前の忍耐の精神を粘り強く発揮するように見える場面が現われるのは、その苦痛への忍耐が、後の快楽を最大化したり、苦痛を減殺したりするだろうという未来への計量的な観測が成立していることの反映であり、結局当人は苦痛そのものを欲している訳ではないと判定される。如何なる行為も究極的には「快楽」の到達と「苦痛」の排除を目的としており、その過程で快楽を延期したり苦痛を堪え忍んだりする便宜的な措置が図られている。そしてソクラテス的な明晰化の意志は、快苦を齎す現実の構造への適正な省察を手に入れることに主要な関心を寄せ、情熱を燃え立たせている。現実に対する精確な理解を獲得すれば、快苦の均衡を正しく保ち、快楽を最大化して苦痛を最小化する為の行動が円滑に実現される。

 こうした観点に立脚すれば、人間が愚かしくも苦痛の渦中へ身を投じるように見えるのは、それが苦痛を増大させる行為であるという事実への「無智」に縛られている為であって、本人の意識においては変わらず「快楽」への志向が活動を維持しているのだと判定される。つまり、無智と蒙昧の生み出す害悪が、快楽への正当な欲求を、結果的に不快な苦痛の領域へ埋没させていると看做されるのである。そのとき、美徳は知識に結び付けられ、悪徳は無智に接続されることとなり、澄明な叡智を求める努力が、人間を悪徳の泥濘から救済し、美徳の幸福へ導く唯一の道程として荘厳される。ヘレニスティックな倫理学においては、善悪と禍福との間には絶えざる相関性が認められているのである。

 ソクラテスの提案した倫理学的知見に基づけば、我々の暮らす地上に蔓延する総ての悪徳は、現実に対する無智を培地として誕生し、増殖したものであるという結論に到達する。総ての悪徳は「蒙昧な悪徳」であり、その無智を癒やせば悪徳は払拭されるという考え方は、後の啓蒙主義に通じる思想的な土壌であると言える。だが、本当に「明晰な悪徳」は存在しないと断定することは可能なのだろうか?

 若しも「明晰な悪徳」が存在し得ると仮定すれば、それは如何なる原理に基づいているのだろうか? 一つ確かに言えることは、明晰な悪徳においては、一般的な快楽原則は適用されないという点である。フロイトの言葉を借りれば、それは「快楽原則の彼岸」に位置するということになるだろう。無智が悪徳を形成するという論理が成立する為には、万人が快楽原則に基づいて活動しているという定言的な条件が要請されるからである。

 賢者に等しい智慧を持ちながら、快楽=善という原則に従うことを峻拒し、苦痛を快楽へ通じる便宜的で暫定的な迂路としてではなく、欲望の対象そのものとして定位する主体、それが「明晰な悪徳」の保有者ということになるだろう。苦痛そのものを求める特異な主体が出現した場合、ソクラテス的な倫理学の原理は不可避的に転覆を強いられる。苦痛そのものを要求する明晰な智者の存在は、啓蒙によって人間を悪徳と災禍から救済しようと試みる「更生」の思想にとっては、容認し難い厄介な異物なのである。

 だが、そのような主体は何故、一般的な快楽原則の適用に抵抗して、苦痛そのものを求めるという奇態な行動に固執するのだろうか? 苦痛は一般に不快を齎し、生命体を衰弱させ、生物学的な「涅槃」(nirvana)の領域へ接近させる。それを殊更に希求するという態度は、当人の内面において既に「幸福」への欲望が死滅しているという危険な事実を傍証している。では、彼らは一体「幸福」の代わりに何を希求しているのか?

 明晰な悪徳を備えた主体が欲する対象は「幸福」でも「快楽」でもなく、寧ろ一切の「滅亡」であろうと推察される。換言すれば、彼らは自らの内属する「世界」或いは「現実」そのものを廃絶したいという欲望に支配されているのである。彼らは「存在する」という最も根源的な営為そのものの破壊を企図している。存在の破壊こそ、彼らにとっては最大の至福を齎す現象なのである。そこでは一般的な快楽原則が書き換えられ、快苦と善悪との素朴な対応関係が破綻を命じられる。一般的な快楽原則は「存在の肯定」を前提的な条件として含んでいる。だが、フロイトの論じる「涅槃原則」においては、通常の快楽原則とは対蹠的に「存在の破壊」が無上の愉悦を齎す源泉として憧憬を集めるのである。

 涅槃原則は、快楽原則に基づく素朴な倫理学的啓蒙の精神を根底から突き崩し、積極的な排撃の烽火を上げる。こうした問題の有する困難は、単なる叡智の涵養によっては解決されない。何故なら、それもまた一つの強力な「欲望」の形式であるからだ。快楽原則において、善であると目される「快楽」の感性的経験は、それを味わう主体の存在を前提としているゆえに、必然的に「存在の肯定」という認識を含む。存在しない限り、快楽を感性的に経験することは不可能であるからだ。しかし、そのような感性的経験そのものの消滅を欲する主体にとって、寧ろ「存在の肯定」は忌まわしき阻害的な要因に過ぎない。涅槃原則においては、そのような感性的経験の「消滅」としての「陶酔」(intoxication)が重要な価値を帯びる。「陶酔」は、通俗的な解釈のように、単に過度に高められた至上の「快楽」を意味するのではなく、過剰な感性的入力によって生じる「感覚の麻痺」であって、それは必然的に「認識の解体」を齎す。主観において、それが「現実の解体」と同義であることは論を俟たない。従って「陶酔」は快楽のみならず苦痛によっても喚起され得る経験である。そして究極の「陶酔」が、生物学的な「死」による認識の全面的な解体として顕れることもまた自明の事実である。

 若しもソクラテス的な明晰化の意志が、快苦の均衡に関する適正な計量の技術に留まるならば、その倫理学的な知見の射程は、古代の牧歌的な道徳律に縮約されることになるだろう。だが、若しも明晰化の意志が、涅槃原則における「陶酔」への欲望との対決を企図するものであったとしたら、その射程は無限且つ普遍的に拡張され得る。ソクラテス的な明晰化の意志は、単に蒙昧な悪徳のみならず、明晰な悪徳をも啓蒙しようと試みることになり、認識の解体という「明晰」の対義語の状況へ人間を導く一切の要素に抵抗する役割を担う。言い換えれば、涅槃原則に支配された主体が本質的に「明晰」よりも「混濁」を愛する傾向を有する以上、無智を悪徳の培地として措定したソクラテスの見解は、その素朴な外見と裏腹に、極めて重要な含意を伴っているのである。悪徳は素朴な無智のみならず、つまり単なる叡智の欠如に留まらず、認識を明晰化しようと企てる人間的な知性そのものの破壊を目指している。知性の破壊、認識の破壊、感性的経験の破壊、これらの剣呑なスローガンは、悪徳の正体を明示している。そのとき、明晰化への意志は、最も邪悪な存在に対する倫理学的闘争の旗幟と化すのである。

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)