サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「メノン」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『メノン』(光文社古典新訳文庫)を読了したので、感想の断片を記しておく。

 「メノン」は「プロタゴラス」同様、人間の「美徳アレテー」を重要な主題に据えた作品である。そして「美徳」は教えられるものなのか、仮にそうであるならば、何故、美徳の保有者と目される数々の偉大な人物たちが、その子供たちに自分自身と同等の美徳を授けることが出来なかったのか、という問い掛けが幾度も反復される。

 仮に美徳が知識であるならば、知識である以上、それは教えられるものである筈だとソクラテスは推論する。確かに美徳が知識として、或る外在化されたパッケージのように存在するものならば、それを他者に伝達することは不可能ではない。だが、それが不可能ではないという事実は、それが万人に対して可能であるということを意味しない。誰しも日常的な生活の随処において経験するように、学校や職場で知識の伝達は等しく行われている筈であるのに、結果的に、それを習得する側の成長の水準は決して一定ではない。美徳が知識として存在するとしても、知識が知識であることによって必然的に、万人に等しく伝達され、共有され得ると看做すのは早計である。

 そもそも何故「美徳」は「知識」であると看做されるのか。それは人間の行なう様々な善良な営為が、その善良で有益な性質を保持する為には、知性の力によって嚮導される必要があると考えられるからである。知性を欠いた勇気は、無謀な蛮勇として数多の災禍を惹起する。つまり、様々な事物や行動を正しく運用する為には、知性による適切な統制が不可欠なのである。従って美徳と呼ばれる人間の有益な性質は、悉く知性の適切な運用の成果として定義されるのだ。

 だが、知性の適切な運用は、外在化されたパッケージとしての「知識」と同義だろうか? 適切な行動に関する明文化された規則と、適切な行動を実現する能力との間には、若干の径庭が存在する。習得された知識の体系と、その知識を世界の裡に体現する技術とは必ずしも等号で結ばれるものではない。もっと単純化して言えば「知識」と「行動」とは銘々、異質な次元に属する事象である。知識の習得と使用との関係は、決して単線的なものでも自動的なものでもないのだ。

 美徳の保有者が、あらゆる他者を美徳の保有者に変えることは困難である。美徳が知識であるならば、それは必然的に他者へ教えることが可能であるという論理には、聊か大雑把な飛躍が関与しているように見える。「知識」と「知性」とは等価の概念ではない。「知識」は「知性」の働きによって形成された「結果」であり、その「知識」を実際に正しく本質的に理解する為には、相応の「知性」の働きが要る。けれども、人間の知性の能力や構造や性質は決して一様ではない。一つの共通の知識に関して、二つの相互に異質な知性が、同質の解釈を抱懐するとは限らないのである。

 美徳を知識と看做すのは、必ずしも適切な判断ではない。そもそも知識は、或る一つの純然たる事実の集合であり、それ自体は善悪という倫理的な価値に制約されるものではない。知識そのものの裡に、善悪の要素を分泌する要因は含有されていない。美徳の観念は、知識に先立って存在する暗黙裡の生物学的な方向性であり、いわば知識の総体を善悪の両面に向かって嚮導し得る超越的な理念なのである。知性的な態度は、倫理的な正しさを直接的に保証する権能を持たない。美徳は知性的な判断の結果として形成されるものではなく、知性という機構そのものに内在している訳でもない。それは知性に先行して顕れる、素性の定かならぬ一つの固有な「偏見」なのである。美徳が美徳としての価値を保持する為には、理性的な「公平」或いは「均衡」の観念から逸脱せねばならない。価値の定立は、合理的な根拠に基づいて行われるのではなく、合理的体系の土壌として事前に行なわれる必要のある、盲目的な情熱の所産である。

 このように考えるならば、美徳とは知識ではなく、知識によって生み出されるものでもない。知性の働きが、諸々の判断や行動を、美徳と目される状況に向かって合理的に嚮導する能力を備えているとしても、それは自らの活動の開始以前において、予め美徳の内実に関する何らかの合意を確立している必要がある。換言すれば、美徳という価値の創出は、原子論に関してエピクロスが提唱した「クリナメン」(clinamen)のような特異点なのである。それは合理的な推論の体系から逸脱し、或る奇妙な実存的偏向を形作っている。個人の思想や信条が時に、如何なる合理的な説諭にも屈服せず、傍目には不合理な軌道を描いて、当人の実存を危うく攪乱するように見えるのも、こうした「クリナメン」としての「信念」が、合理的な体系に還元されない独自の領域に存在し、機能していることの反映である。知性そのものが、何らかの人間的価値を形成することは有り得ない。「価値」は常に、人間の認識における不可解な「偏向」から分泌され、醸成される。従って美徳を教えることは原理的に不可能である。何故なら、或る美徳を形成する土壌の役目を担う「偏向」の出現は、純然たる偶発性に支配されているからだ。従って美徳を、規則的に整理された「知識」のように、普遍的な観念の体系として他者に譲渡することは出来ない。それは決して普遍的な共有の対象ではない。普遍的な「偏向」というものを想定することが、如何に奇態な矛盾に満ちた行為であるかは歴然としている筈である。

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)