サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(哲学・偏向・単独性・固有性)

*賢くあろうと努める者は極めて安直に、理性に基づく必然性の認識という奇態な信仰へ呑み込まれる。理性によって現実の構造を正しく認識しようと試みるのは、殊更に批難されるべき謂れのない作業である。だが、そうした作業に何らかの倫理的な「価値」を見出すという事実自体が、或る特異な「偏向」(deflection)の産物であることに、我々は明晰な注意を払わねばならないだろう。だからこそ、一見すると知性の適切な運用に興味を持たないような人間に対して、彼を「愚昧」という名の悪徳の下に断罪する行為は、断じて普遍的な正義を伴うものではないと言えるのである。

 「偏向」は人間の実存の条件である。それを随意に解除することは出来ない。誰もが銘々の「偏向」を生き抜いていくしか途はない。自分の信じる正義が、他者の信じる正義と符合しないのは日常的な光景である。

 だが、如何なる「偏向」に依拠して日々の生活を営んでいようとも、賢明な知性が、或る「価値」の実現に通じる道筋を明らかに照らし出す力を備えているのだとすれば、賢明であることは、愚昧であることに対して相対的に優越していると言える。重要なのは、賢明な知性が、何らかの肯定的価値の実現に貢献するということであり、知性そのものに価値を見出すという「偏向」の形態が、それゆえに愚昧な他者を誹謗するという関係性の構造は、そうした相対的優越の話とは異なる範疇に属する問題である。

 こうした観点から眺めれば、恐らく「哲学」とは、知性に関わる奇態な「偏向」の構造的効果である。哲学とは特定の学術的対象を所有する何らかの分野の名称ではない。物理学が物体を支配する客観的な法則を考究し、医学が人体の疾病に関する諸々の知見を技術的に取り扱うような意味で、哲学が自身に固有の範疇を所有することはない。強いて言えば、哲学という偏向は、知性一般の働きそのものを省察することに特別な価値を置いている。多くの人々にとって、知性の働きは、己の目指す価値を実現する為の便宜的な方途に過ぎない。彼らが知性の働きを高めようと試みるのは、それが何らかの固有の「価値=偏向」の実現に資すると考えられるからである。けれども、哲学の領域において、或いは哲学的主体にとって、知性は何らかの手段ではなく、それ自体が価値を帯びた実体である。それを適切に運用することは、哲学的主体にとっては紛れもない歓喜の源泉である。哲学という概念の原義が「知を愛する」という意味のギリシア語に基づいている事実は、こうした消息を傍証していると言えるだろう。

 従って、哲学が何の役に立つのか、という素朴な問いに対しては、強いて言えば、知性の適切な運用に関する訓練として有効である、という答えを以て報いる以外に途はないと思われる。医学が人命の救済に貢献し、教育が有能な人材の輩出に寄与するという意味では、哲学の具体的な実効性は曖昧であり、哲学が教育及び研究の範疇に属する辺鄙な分野であるという現行の社会的待遇は、極めて適切であると言えるかも知れない。同時に、哲学が知性の専門的訓練に有効であるという事実は、哲学が万人に関わりのある技術的な側面を備えていることの証明である。「知性には如何なる働きが可能なのか?」という問題を追究する上で、哲学の築き上げた歴史的遺産の総体は極めて専門的な有効性を発揮し得る。だが、それは哲学の技術的側面に関する解釈であり、哲学的主体そのものの抱え込んでいる実存的偏向とは異質な次元に属する問題である。医者の有する普遍的技術と、個々の医者が抱懐している実存的偏向とは、相互に等価ではない。

 誰しも自己に固有の「実存的偏向」を人生の要件として受容する以外に、生きる途を持たないのは明瞭な事実である。同時に人間の生活は、自己に固有の「実存的偏向」を具体的に創出していく過程であるとも言える。「偏向」という概念には、必然的に「創造」(creation)という概念が潜在的に含まれている。エピクロスの原子論において「偏向」としての「クリナメン」(clinamen)が、宇宙における森羅万象の生成の要因と目されたように、偏向は必ず創造と結び付くのである。我々の人生が、主体的な「創造」の過程であるという事実に、我々は持続的な関心を維持しなければならない。