サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「メノン」に関する覚書 3

 引き続き、プラトンの『メノン』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 この対話篇の中で、登場人物のメノンが提示し、ソクラテスが図式的に整理した「探究のパラドックス」に関して、断片的な思索を書き留めておこうと思う。

「人間には、知っていることも知らないことも、探究することはできない。

 知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探究など必要ないから。

 また、知らないことも人は探究できない。何をこれから探究するかさえ、その人は知らないからである」(『メノン』光文社古典新訳文庫 P67)

 このパラドックスには、聊か欺瞞的で作為的な狡智が関与しているように感じられる。先ず冒頭の一文は、人間の知性による「探究」の不可能性を告示している。そのような告示を試みること自体の裡に、相手を混乱へ陥れ、論理の力を借りて拘束しようと図る厭らしい悪意の片鱗が透けて見えるのだ。探究の対象が既知と未知の何れに属するのであっても、その探究が如何なる場合にも不可能であるならば、そもそも彼らの間で延々と取り交わされてきた哲学的応酬の意義は根本的に消滅してしまう。

 換言すれば、このパラドックスが提示された意図は専ら、探究の不可能性を明証することで知性の健全な働きや更なる成長を妨害し、禁圧することに尽きているように見える。探究の不可能性を論証することで、メノンは哲学的探究に費やす労力の総てを帳消しにしようと試みているのではないかと勘繰りたくなる。

 人は既に知っていることに就いては探究の必要を感じず、従って実際に探究を試みることもない。この論証は、作為的な歪曲を含んだ状態で、我々の眼前に示されている。「探究を試みる必要がない」という命題と「探究することが出来ない」という命題とは、明らかに同じ意味を備えていない。そして「探究を試みる必要がない」という判断が、如何なる根拠に基づいているのか、分明であるとは言い難い。「既知」という範疇に事物に関する知識を繰り入れるとき、その判断の確固たる正当性を保証するのは、如何なる種類の認識だろうか?

 「既知」という観念は、要するに「自分はそれに就いて知らない部分を持たない」という自己認識から析出される知性上の範疇である。この場合の「知る」という言葉には、重層的な意味が潜在していると考えることが出来る。「知る」という言葉には、例えば「その事物の存在を認知する」という基礎的な感覚の次元と「その事物の存在に関する総ての情報を把握する」という拡張された理性的な次元の双方が混在している。或る事物に関する人間的な認識は無数の広範な濃淡を持ち、基礎的な認知と理性的な把握との間には様々な段階を細かく想定することが可能である。

 若しも或る事物に関して、或る人間の有している認識が完璧に行き届いた理解に達しているとすれば、確かに知性的な探究を試みる必要は生じない。「完璧な理解」としての「知悉」は、探究の極限的な形態であり、如何なる「未知」も残さず平らげて抹消してしまった状態を指している。だが、その状態へ至るまでの間には、恐らく確実に、弛みない「探究」の作業が厖大に積み重ねられた筈であり、その過程では、人間の知性は「既知」と「未知」との複雑な混淆の内部を幾度も航行した筈である。

 他方、人は「未知」の対象に関しては、それが何であるかを知らない為に、如何なる探究も試みることが出来ない、という論証は、恐らく暗黙裡に「完全なる無智」の状態を想定しているように思われる。確かに人は、思考の基礎となる感覚的認知の次元においてさえも把握したことのない対象に関して、明晰な知性的探究を企図する動機も手段も持ち得ない。けれども、人間は絶えず完全なる無智の状態に留まっているとは限らず、少なくとも「美徳アレテー」に関するソクラテスの探究は、一切の手懸りを絶望的に欠いた状態の中で営まれている訳ではない。確かにソクラテスは「美徳」に関する己の無智を告白しているが、それは「美徳」に関連する如何なる知識とも無縁であるという意味ではない。彼の「無智」は探究の不可能性の根拠ではなく、寧ろ熱心で持続的な探究の「結果」として形成されたものであると看做すべきである。恐らく人間は「既知」の領域において、一見すると自明であるように思われる事物に疑念の眼差しを向けることによって、知性的な「探究」の過程に踏み出すのである。

 「探究のパラドックス」は、本来ならば長大な微分的差異の連鎖として構成されている「既知」と「未知」との間の隔たりを、乱暴な二元論的構図で概括することによって生み出されている。このパラドックスは「既知」と「未知」とが、絶えず曖昧な境界線で流動的に結ばれ、錯雑した混淆の裡に存在しているという事実を意図的に黙殺している。純然たる「既知」と純然たる「未知」との明快な併存という理念的事態を想定することで、メノンは「探究」の営為を奇怪な呪縛の中へ幽閉しようと試みているのだ。

 だが、我々は「既知」と「未知」との間に築かれる柔軟な関係性の存在を経験的に認知しているのではないだろうか。完全なる「既知」も完全なる「未知」も共に存在し得ない。完全であると思われた「既知」の世界が綻びることは少しも稀な現象ではないし、そもそも「既知」と「未知」との間に存在する境界線は、常に流動的な揺らぎを含んで、画然たる弁別の成立を容認しないものである。

 我々の知性は、様々な情報や知覚を相互に結合し、接続し、関連させることによって、新たな認識を創出する機能を備えている。一つ一つの「認識」は決して断絶も孤立もしていない。だが、メノンの作為的な論証は、「既知」と「未知」との明瞭な識別において象徴的に表れているように、個々の「知」を別々に発生する完結的な現象として定義している。一つの「認識」と、その他の「認識」との間に如何なる関連性も認めないことによって、彼は知性の重要な機能である「探究」の成立する要件を意図的に破壊しようと試みているのである。

 知性の働きは「知覚」のみならず、「記憶」や「想定」との複雑な混在によって支えられている。現前する情報は、過去に獲得された記憶との間に絶えず様々な関係を形成し、それらの情報の総体が未来に関する多様な想定の基盤を形作る。こうした流動的な過程の存在を黙殺し、個々の認識を孤立した墓標のように羅列することで、メノンは「探究のパラドックス」における「分断された二元論」を魔術のように成立させている。だが、それは抽象的な観念の操作による詐術、或いは言語的な「眩惑」に類するものではないだろうか? 現前する情報が、無数に蓄積された過去の様々な情報と複合することによって、自分の知らない事柄に就いて事前に「想定」を組み立て得るという経験的な見解は別段、奇異な代物ではない筈である。「既知」の事物に対して「未知」の要素を挿入し、尚且つ「未知」の事物に対して「既知」の要素を附加する知性的な操作の反復が、我々の精神に「探究」の可能性を開示する。それは少しもパラドキシカルな事態ではなく、認識の流動性という頗る凡庸な性質に由来する必然的な現象に他ならない。

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)