サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「メノン」に関する覚書 4

 引き続き、プラトンの『メノン』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 メノンによって提示された「探究のパラドックス」を解決する為の処方箋として、ソクラテスは次のような考え方を表明する。

 このように魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており、この世のことでも冥府のことでもあらゆることがらをすでに見てきたので、魂が学び知っていないことは何もないのだ。したがって、アレテーについても他のさまざまなことについても、なにしろ魂が以前にもう知っていたことなので、魂がこれらを想起できることには何の不思議もない。

 なぜなら事物の自然本性はすべて同族であり、魂はすべてのことを学び知っているので、人が或るたったひとつのことでも想起するなら――このことを人間どもは「学習」と呼んでいるが――、その人が勇敢であり、探究を厭わなければ、他のすべてをかれが発見することには何の妨げもないのである。というのも探究することと学習することは、けっきょく全体として、想起することに他ならないから。(『メノン』光文社古典新訳文庫 P70-P71)

 ギリシア語で「アナムネーシス」と呼ばれ、日本語では伝統的に「想起」の訳語が充てられている、こうしたプラトンの見解は、唯物論的な教育に慣れ親しんだ平均的な現代人の眼には、聊か胡散臭い神秘主義の香りを帯びた奇態な学説のように映じるかも知れない。「霊魂の不滅」という着想も、後世における近代科学の学術的成果を俟たずとも、ヘレニズム時代のエピクロスやルクレーティウスの著作を通じて既に十全に批判されている。無論、その一方ではヨーロッパには数千年の歴史を有するキリスト教の思想が傲然と屹立しており、霊魂という概念に対して真摯な信仰を捧げている。プラトンの思想が一般に西欧の歴史の重要な源流と目される背景には、キリスト教との思想的な親和性が関与しているのかも知れない。

 ソクラテスは「アナムネーシス」の概念を持ち出すことによって、メノンによる「人は知らないものを探究することが出来ない」という論証を覆そうと試みている。だが、この提案は聊か神秘的で、より複雑で難解な神学的論証を行なわない限り、メノンに対する反駁としての有効性を担保し得ないように思われる。だが、慎重に対話篇に綴られている言葉の一つ一つを読み進めれば、霊魂の不滅という神秘的で宗教的な観念が、アナムネーシスという概念の本質を構成する要件ではないという解釈も可能であるように感じられる。霊魂の不滅という文言は、アナムネーシスという概念を装飾する神話的な彩であり、その外見に誘導されて、古来の「輪廻」という観念に就いて詳細な議論を試みる必要は、少なくとも想起と探究との関係性を考察する局面においては生じないと私は判断する。

 奴隷の少年との幾何学的問答を通じて示される「想起」の過程は、わざわざ霊魂の不滅という大袈裟で超越的な保証を持ち出さずとも、それが如何なるものであるのかを考究することが可能である。厳密に考えれば、ソクラテスの論じる「想起」は過去に存在する記憶を思い出すという意味ではない。従って無限なる輪廻転生の過程で獲得した森羅万象に関する記憶を再生するという意味で、この「想起」という概念を用いるのは適切な態度ではない。彼は恐らく、人間の認識に内在する知性の普遍的な構造に就いて語り、その性質を明快に表象する為の便宜的な手段として「想起」という言葉を半ば比喩的に選択しているのである。

 ソクラテスの用いる「想起」という概念は、或る意味では「吟味」という概念の類義語であり、両者が銘々に有する働きの性質は非常に近似している。曖昧に混濁した不透明な「認識」の連鎖を整序して、その透明度を高め、明晰な視野を開拓すべく努めること、そうした「哲学」の本質的な活動を指し示す術語として、彼は「想起」という言葉に特別な荷重を与えたのではないか。従って通俗的な観念に基づき、神話的な幻想を無批判に摂取した上で、ソクラテスの用いる「想起」という術語を、単なる「未生の記憶」の復元という意味で理解してしまえば、そもそもソクラテス自身が提案し実践している哲学的な「対話」(dialogue)の本領自体が根底から毀損されることになりかねない。

 何かを知るという営為が「想起」という性質を有していると看做されるのは、それが既に構築された認識の曖昧な「地図」を新たに編輯し、再構成することで、以前は秘められ蔽い隠されていた認識の潜在的な側面を、明晰な形で顕在化させるからである。既知の認識を、つまり既に保有し堅持している認識の内容を、新たな関係性の下に再配置し、認識と認識との間の繋がり方を組み替えることで、我々の視野は自ずと更新され、旧来のパースペクティブにおいては捉えることの出来なかった新たな認識を獲得することが可能になる。それは恰かも、今まで自己の肉眼で捉えていた認識の対象を、例えば電子顕微鏡を通じて眺め、観察することによって、従来の肉眼では捉えることの出来なかった新たな知見を、既知の事物に関して発見するようなものである。

 このように、新たな認識は、つまり未知の事柄に関する新規の発見は、既に把握されているものを異なる「地図」の裡に移植する作業を通じて実現される。そうやって獲得された新たな認識が、更に他の認識との間に新たな関係を締結することで、知性的な探究の成果は幾何級数的に増殖し、拡大していく。これらの経緯は、要約すれば認識において潜在的な形態で存在していたものが顕在化するということであるから、それを忘却された記憶の「想起」に譬えるのは妥当な解釈であると看做して差し支えない。けれども、その比喩的な解釈を正当化する為に「霊魂の不滅」という超越的な論理を以て権威の補強を試みる必要はない。

 「想起」の概念を、認識における潜在的なものの顕在化の過程として定義するならば、既知と未知とを根底から断絶させるメノンのパラドックスが、認識における現実を適切に反映していないことは明瞭である。既知の事物に関して探究の必要を認めないメノンの考えは、探究が常に既知の事物の吟味によって始まることを看過している。また、未知の事物に関しては如何なる探究も不可能であると看做す彼の考えは、既知の事物を組み替えることで顕在化する未知を捉えることが探究の本質であることを理解していない。この意味では、ソクラテスの提示した「想起」の学説は、メノンの提示した「探究のパラドックス」に対する精密な反駁として有効に機能していると言えるだろう。「霊魂の不滅」という神秘的な教義に眩惑されて、こうした消息に関する厳密な検討を抛棄するのは不毛な判断である。

 既知の認識に就いて、その不透明な残余の部分を「再審」の法廷へ連行し、綿密に吟味すること、それによって新たに発見される未知の認識を通じて、従来の視野における秩序や構造を再編成すること、こうした作業の反復が、つまり絶えざる「再審」の反復が、我々の認識の範囲を拡張し、それまで関知することのなかった領域を、我々の精神にとって親しいものに作り変えるのである。哲学的探究とは即ち、無限に繰り返される「再審請求」の過程であり、従ってそれは決して革められることのない不動の判決を絶対に容認しない。哲学の役割は幾度も新規の「設問」を創出することであり、厳密な「正解」を提示することは聊かも重要な作業ではないのである。

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)