サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「善の複数性」に関するノート

 「善」という概念が「快」と混同されるのは、享楽主義の徴候です。けれども、あらゆる動物的存在が「快苦」の感覚的原理に支配され、導かれるようにして、己の生存を維持し、様々な行動に結び付けられていることも事実です。享楽主義への批判は、快楽に対する執着、つまり本来であれば生命体の原理に奉仕する便宜的な手段であり信号であるべき快楽を、特権的な価値として抽出し、只管に快楽そのものを目的化するような様式の振舞いを問責する訳ですが、そのような問責が暗黙裡に前提している「善」という理念は、そもそも如何にして人間の内部に成立するのでしょうか?

 「善」という概念は、明らかに「快」という概念とは異質な意味を含んでいます。そうでなければ、人間の言語が「善」と「快」とを弁別する理由が生じないからです。「快」が総ての行動を律する究極的な目的であるならば、わざわざ別途に「善」という概念を案出する必要はありません。

 若しも「快」が総ての行動を律する理念であるならば、我々は絶えず「快」を味わう為に遽しい奔走を強いられます。何故なら「快」とは、我々の欲望が充足される過程で生じる一過性の感覚的現象であり、決して長続きする性質のものではないからです。しかも、快楽は光と影とが表裏一体であるように、苦痛との間に不即不離の関係を生得的に備えています。快楽は常に瞬間的な現象として顕れ、その感覚的充実は速やかに揮発していきます。それは「倦怠」という感覚的現象を徴することによっても明らかに指摘される事態です。人間は長い忍耐の末に手に入れた貴重な宝物にさえ、実に容易く飽きてしまう生き物です。達成された欲望は直ちに、欲望としての資格を喪失します。喉の渇きが癒される瞬間の快楽は、咽の渇きが癒やされた後には迅速に意識の舞台から退場します。再び喉の渇きが癒される瞬間の快楽を堪能する為には、もう一度「苦痛」としての渇きを手に入れねばなりません。快楽は常に或る状態から別の状態へ移行する「変成」の過程で醸成され、分泌されます。従って、変成の過程が一旦完了してしまえば、同じ感覚的信号を持続的に入力したとしても、その信号が快楽として享受される見込みはないのです。

 従って享楽主義は必然的に欲望の「輪廻」として展開される運命を背負います。しかし、それ自体は個人の裁量に属する問題であり、快苦の目紛しい交替に耽溺する生活を本人が望むのならば、それが彼を破滅の深淵に導くとしても、第三者が容喙する理由はありません。古代ギリシアの著名な思想家エピクロスが唱えたように、享楽よりも「アタラクシア」(ataraxia)の境地を重んじて、放埓な享楽を斥け、専ら「苦痛の欠如」を理想的な状態であると信じ込むのも、飽く迄一つの相対的立場であって、それを直ちに普遍化することは出来ません。

 「善」という概念の詳細な定義に就いて論じる場合には、様々な角度から「善」に関する定義の境界線を明瞭に画定していく必要があります。例えば人間の覚える「快楽」が多様であることにも、我々は留意せねばなりません。肉体的な快楽であっても、精神的な快楽であっても、我々がそれを「快楽」と看做すかどうかに就いては、個体によって「偏差」があります。享楽主義に洗脳されていたとしても、万人が美食を好み、漁色に明け暮れるとは限らないのです。つまり、享楽主義の具体的な外見は千差万別であり、共通して言えることは、それが「快楽」を目的化しているという点に存します。換言すれば、享楽主義における「善」は「快楽」なのであり、そこでは「快楽」に対する超越的な理念としての「善」という性格が大幅に減殺されていると考えられます。或いは、享楽主義における「善」の概念は、快楽に対して絶えざる膨張と増大を命じ続けているのです。

 一般論として「善」は「快楽」を馴致し、嚮導する理念です。それは個人的な「快楽」自体を目的とせず、快楽を何らかの理念に向かって奉仕するように仕向ける権力を備えています。「善」は「快楽」の志向する目的の場所に位置し、個体の生存における様々な言行を統御する役割を担います。言い換えれば「善」とは何らかの個別的な実体を指し示すものではなく、具体的な個物に与えられた名辞ではないのです。それは個体の生存を統御する究極的な理念、或いは「統整的理念」として機能する関係性の形式に対して賦与された抽象的な名辞なのです。

 従って「善」と「快」を同一視する実存的個体が出現すること自体は、奇怪な現象であるとは言えません。「善」の領域には、如何なる概念であっても代入することが可能であるからです。けれども、享楽主義において実行される「善=快」の同一視は、そもそも「善」という理念の導入を要求する必然性を伴わない話です。我々が殊更に「善」という概念を持ち出すのは、それが根本的に社会化された理念であるからだと考えられます。言い換えれば、我々の信奉する「善」という概念は常に他者の存在と関連しており、若しも他者が存在しない世界に暮らしているのであれば、我々は閉鎖的な享楽に明け暮れる以外の途を選ぶ動機さえ持ち得ないのです。仮に「享楽主義」と殊更に命名するほどの明瞭な主張を含んでいなくとも、我々人間は他者の存在に配慮しない場所では往々にして自己の感覚的快楽に対して忠実に振舞うものです。そこでは「善」という超越的で指導的な理念を日々の生活の裡に導入する必然性が消去されています。

 我々が享楽の習慣に対する一途な忠誠を抛棄することを迫られるのは、我々が徹頭徹尾、社会化された存在として生まれてくるからであると考えられます。共同体という大袈裟な言葉を持ち出さずとも、我々が無力な赤児である期間においても既に、我々は養親との間に何らかの社会的関係を構築せずにはいられません。端的に言って「授乳」という社会的紐帯(それは母親との「社会的関係」の代名詞であると言えます)を欠いただけで、我々は生物学的に死滅してしまう動物であるからです。

 他者との協同を基礎として生きることが我々の実存的な条件であるからこそ、我々は「善」という概念に就いて頭を悩まし、己の個人的な快楽を節制する義務を負うのです。しかし「善」という概念は往々にして、局地的な共同体の内部で育まれた規範であることが殆どであり、従って「善」の具体的な内実は、厳密な普遍性を備えていません。恐らく「善」の概念は、他者との関わりの中で相互に公平な「快楽」の享受を実現する為の規範として案出されました。従って、自己の利益に専心し、他者の快楽を毀損することに如何なる躊躇も示さない人間が「悪人」と呼ばれて忌避され、時に断罪されるのは当然の措置であると言えます。

 「善」の定義が他者との社会的関係に基づいて規定されるという事実は、我々の倫理的な悪戦苦闘を、一際困難な世界へ拉致してしまいます。言い換えれば、我々にとって「善」の定義が常に可変的で流動的なものであり、如何なる状況においても普遍的に通用する一義的な内容を持ち得ないという事実が、我々の倫理的な生活を極めて困難な判断の連鎖に巻き込んでいるのです。特に個人同士の利害が対立する局面において、両者が単純に自己の「利益=快楽」の実現だけを強硬に要求するとき、我々が普遍的な「善」の発明を期待することは非常に絶望的な願いであると言えます。少なくとも、我々が「善」の実現に資すると期待し得る規範の一つは「対話」です。何故なら、我々の議論する「善」は常に社会的な合意を伴うべきものであるからです。しかし、それを「多数決の論理」に委任することもまた危険を伴います。

 或る共同体において「善」であると認められている事柄が、異なる共同体において「悪」であると看做されている場合、両者の関係性における「善」を見出す為には、局所的な「善」の理念が改訂される必要があります。換言すれば、実質的に「善」は複数の形式を持ち得る可変的な理念でありながら、その本性において、普遍性を目指さねばならないのです。普遍性を目指さない「善」の探究は、或る限られた領域の内部に逼塞することで、己の正しさを立証し、信仰するしかありません。けれども、それは外部に存在する無縁の他者の存在を認識的に抹消することを意味します。他者の抹消は、如何なる意味でも「善」の概念に対して論理的に相応しくありません。他者を抹消し得るならば、我々は「善」に就いて考えずとも良いのです。他者の存在しない世界では、個人的な快楽だけが、総てを支配する超越的な絶対者の玉座を占有するのですから。